阿吽考察 完成したトス、決まらなかったスパイク
これまでに「ドンピシャ」のトスについて、岩泉は決めきれなかったものの、セッターの領分としては最高のものとして完成されたと述べてきた。トスが完成した事で、及川の物語にも岩泉の役割にも結末が与えられた。しかしそれでも岩泉が決めきれなかったという事実は残る。なぜ岩泉は決めきれなかったのだろうか。
雑誌「ダ・ヴィンチ」のインタビュー記事において、担当編集者のこのようなコメントがある。
必殺技って、読者の方が「相手を倒すことに納得できる技」ってことだと思うんです。バレーボールでいえば、「相手をぶち抜く」っていう希望をキャラクターが抱いて、その一打に乗っけた気持ちをちゃんと描ければ、それは他と違う特別なアタックになるんです。その一打を納得出来る所まで押し上げるには、勝つために必要なプレーの組み立てなどがきちんと必要なのですが、それはキャラクターの気持ちを丁寧に描いていく、『ハイキュー!!』の必殺技になっているとは思います。
この定義に照らせば岩泉のスパイクは充分必殺技になり得たと思う。これまでにあのトスが達成された下地については十二分に考えてきたと思うが、そんな下地があるからこそ、私など初めて読んだ時には146話の最後のページまで読んでも、まだスパイクが決まったと思っていた。不意をついた攻撃であり、ブロックがほぼついておらず、状況的にも決まらない方がおかしいくらいだと思う。
それでもこのトスは決まらなかった。それは岩泉がスパイカーとして未熟だからだろうか。それまで外野から示されてきた及川との実力差が、ここにきて決定的なものとなって表れてしまったのだろうか。
しかし、この状況でスパイクを決める事は、たとえば及川が才能の線を踏み越えたほどに難しい事ではないはずだ。いつも通りの岩泉ならば、決めていてもおかしくない程度のものだと思う。つまり、岩泉が普段よりも力を出せなかったという事になると思うが、改めて岩泉がスパイカーとして未熟であると描写する事に、何か意義があるだろうか。
特に春高では、伊達工の鉄壁破りやレシーブの快感など、岩泉の実力についてはそれまでに比べれば大盤振る舞いと言って良いほどに描写されていたと思う。そんな描写をしてきて、最後の最後に未熟さを結果として全面に押し出し、そのまま投げ出す事などあるだろうか。
私は、この岩泉のミスについて、バレーボールプレーヤーとしての資質に対する問題を描いたというよりは、彼の物語における扱いの結果だと考える。
及川と岩泉はそもそも誕生の経緯からして非対等な存在であった。烏野との練習試合の段階で及川と岩泉の扱いが同等であると感じた人はおそらくいないと思う。ひとつに青葉城西が登場した段階において、岩泉の扱いがまだ定まっていなかったという事もあるだろう。扱いを最初から定める必要があるほど、『ハイキュー!!』において岩泉の存在は重視されていなかったと思われる。及川が主要なライバルキャラクターとして登場したのに対して、岩泉は言ってしまえば数合わせ要員に近い。
そしてIHに突入した辺りで、岩泉はひとつの役割を負った。それが「岩泉一の役割」でも述べてきた通り、及川の物語における補助役である。しかしあくまで及川の補助であり、その役割によって岩泉自身の物語を持ったわけではないと考える。
岩泉はバレーボール漫画においてバレーボール的な特徴はほとんど持っていない。強豪校のエースとして申し分のない程度の描写はなされているが、それによって、たとえば梟谷の木兎や和久谷南の中島、白鳥沢の牛島のように、エースのあり方を描こうとするメッセージ性のようなものはあまり汲み取れない。作者がキャラクターを通じて伝えたい事を、岩泉には特に持たせなかったのだと思う。
その事から岩泉の役割はなんらかの主張を持った主要なキャラクターではなく、あくまで及川を通じて描きたい事の補助役に留まっていると考える。生まれ持った非対等は覆らない。
とは言え、当初に比べれば岩泉の存在感は比べ物にならないほどに大きくなった。及川が信頼を寄せる存在として描かれても不自然のない程度に、見かけ上の及川との差は相当に縮まった。それは、及川の物語において、及川と対等な存在が必要となり、岩泉を及川と対等なポジションに据える事を決めたからだと思う。
岩泉は北川第一時代に及川に対してこう怒りを露にする。
「てめえ一人で戦ってるつもりか 冗談じゃねーぞボゲェッ てめーの出来が=チームの出来だなんて思い上がってんならぶん殴るぞ!」
7巻60話 岩泉一
これは立場が対等なものでなければ言えない台詞だろう。及川1人におんぶにだっこだとどちらかが思っていては、言えない、響かないものである。
岩泉がこの台詞を口にする事ができ、かつ及川がこの言葉を素直に受け取るには、彼らの関係は対等でなければならなかった。岩泉も及川と同じくらいバレーに打ち込んだ背景があり、また彼に劣らない程度の実力が必要だった。
そのために、及川との阿吽の呼吸や、チームの窮地に際しての活躍、能力パラメータ等が盛り込まれ、岩泉の存在感もまた増していったものと考えられる。
実際及川と岩泉とのお互いに対する認識は対等なものであると言って良いだろう。前述した北川第一時代のエピソードもそうだが、他にもお互いに自分が負けてないと言い張るシーンや、遠慮なく意見を言い合う様は、彼らの間に引け目や優越感と言った非対等なものがあるとは思えない。
及川の主観においての岩泉、また、岩泉の主観においての及川は、対等な存在なのである。
しかし、前述したようにこの対等さはそれを実現するため、意図的に岩泉に描写が盛られて達成されたものである。そしてその描写は及川という別のキャラクターの必要に応じてなされており、岩泉というキャラクターを中心に据えたものではなかった。結局のところ、主要キャラクターとその他のチームメンバーという構図は大きくは変わっていない。
そしてその残り続ける非対等は、物語中においても影響を色濃く残す事になる。
「…セッターながら攻撃力でもチーム1 勿論セッターとしても優秀 恐らく総合力では県内トップ選手の―…及川徹率いる青葉城西」
5巻35話 烏養繋心
「青城って皆レベル高いのに及川のせいで目立たねーよな…」
6巻59話 得点係
「青葉城西は及川以外弱いという意味だ」
9巻77話 牛島若利
青葉城西は何かと及川とそれ以外で区別され、またその区別にはレベルの差がついて回る。及川と岩泉とが並べて語られる事は少なく、岩泉個人について言及される事も、特に春高まではほとんどなかった。
本人たちの間では対等なはずであるが、はたから見た評価としてはむしろ非対等なものの方が多い。岩泉に役割が与えられ、存在感を増してからでも主要なキャラクターにはならない扱いが続いたために、作中においての非対等さも敢えて埋めようとするものではなかったのだろう。
そしてその事が、あのトスの結果にも影響したのだと思う。
状況としてはほぼノーマークであり、ドンピシャの形容がつくほどに打ちやすいトスだったはずだ。そうであってもなお決めきれなかったという事は、あのトスは及川の物語にのみ係るものであって、岩泉の物語に組み入れられるものではなかったという事なのだと思う。
あのトスは青葉城西が勝つのならば決まっていたし、烏野が勝つのならば決まってはならない、試合の流れの鍵となるようなトスだったと思う。
及川の物語としては、トスがドンピシャで上がり、岩泉がそれに合わせた時点で完成を見ている。あとは試合の行方が岩泉に託される事になる。岩泉個人には物語がない。岩泉には決める必要も、決められない必要もなかっただろう。私はあの試合は烏野の勝利が前提にあったと思う。リベンジマッチ、それもこの機会を逃せばほぼ実現できないと言って良いリベンジマッチは、やはり主人公が勝たなければならないと思う。その物語の展開のために、どちらに転んでも影響の少ない岩泉が調整役となった可能性は充分に考えられる。
つまり岩泉個人は物語を持たない点において、及川との非対等さが残り続けたために、あのトスを得点に繋げる事ができなかったのではないかと思うのだ。
あのトスは及川と岩泉が対等であるからこそ実現したトスであると同時に、非対等だからこそ、及川はトスを成功させ、岩泉はそれを決めきる事ができなかった。
最後まで岩泉は及川と真の意味で対等な存在にはならなかった。
しかし岩泉が杜撰な扱いを受けたのかというと決してそんな事はないと思う。
私は、作者はバランス感覚を大切にする作風があると思っている。落としたキャラクターはその後必ず上げる、つまり挽回させるのである。ストーリーの大筋で見た時にその傾向がある事はもちろんだが、ワンプレーワンプレーにもその精神が見てとれる。
たとえば山口がIH青城戦でサーブを決められず、春高青城戦で挽回する例などはわかりやすいが、その山口のサーブに対して最初に判断を誤り、得点を許したリベロの渡は、マッチポイントの局面で同じく山口のサーブをリベロのプライドにかけて上げたのであろうし、あるいは同じく山口に根性レシーブでスパイクを拾われた岩泉は、前述の渡が拾ったボールで山口にまともなレシーブをさせず得点している。
『ハイキュー!!』という作品はそういった細かい点にまでバランス感覚を行き渡らせていると感じるのだが、それでは決めきれなかった岩泉の後悔はどこかで挽回されるのだろうか。
「ドンピシャ」のトスは、トスが完璧であって、また及川が決死の想いで繋いだもので、だからこそ岩泉が大きな後悔を背負った事は「何がエースだ!!!」の叫びや、あるいは番外編でのやりとりからもわかるところである。
そして岩泉がこの先誌面に描かれる物語の中で、この後悔を挽回できるのかというとそれはひとまず無理な話だろう。
しかし岩泉は自分を責めたが、果たしてそれに対して「こんな奴がエースじゃあな」などとチームメイトが、あるいは読者が思っただろうか。
岩泉の後悔はどうしても後から回収できる性質のものではなかった。及川の物語の達成は試合のクライマックスで実現されるべきだった。そしてそのトスは勝敗に大きく関わってくるものになり、ここで青葉城西側に天秤を傾けると、それをまた烏野側に傾けるのにも大きな力が必要になってくる。烏野の勝利が前提にあるとすれば、岩泉は自身の出番の最後と言っても過言でない試合の最後で、完璧なトスを決めきれず、大きな後悔を背負って物語から身を引く事を迫られる。
しかし、と私は思う。後からどうにも挽回できないからこそ、岩泉の後悔は先に回収されていたのではないだろうか。
特に春高編に入ってから、岩泉がエースである事、油断ならない相手である事の描写は、IHの頃からは考えられないほどに増えたと思う。
「青城のエースの人」
13巻108話・15巻126話 日向翔陽
「岩泉のサーブも強烈になってた筈…」
15巻130話 澤村大地・東峰旭
「パワーもテクニックもある岩泉 攻撃は勿論囮としても極めて厄介な16番 決まり始めた及川のサーブ… どこかを突き崩さなければこちらが崩される!!」
16巻140話 烏養繋心
また、それまでの描写から比較的レシーブ巧者らしい事は表現されていたが、レシーブの快感を語らせる事で、それなりのレベルである事を明示した事や、また、何より伊達工業の鉄壁破りは岩泉個人の力量を示すためのエピソードがわざわざ用意されたものと言っても過言ではないと思う。主人公校のエース・東峰と、次期エース・田中をして感嘆せしめたプレーである。エースとして申し分のない働きを見せたエピソードだったと言って良いだろう。
「あの3枚ブロック相手に真っ向勝負―」
「悔しいけどかっこいいぜ…」15巻128話 東峰旭・田中龍之介
岩泉は基本的に話の主題にはならないと考えるが、しかしこの岩泉の活躍は、及川をはじめとした主要なキャラクターたちの物語に何か関係があったかというとそうでもなさそうなのである。強いて言えば、腕の隙を抜かれた黄金川には何か爪痕を残したかもしれないが、今のところそれを示す描写もなく、ただただ岩泉のエース性を描いた話であったように見える。
これらの岩泉自身を盛り立てるような描写になんの意味があるのかと私はずっと疑問に思っていたが、春高での岩泉の後悔が後から回収しきれないものである事に気付いた時、もしかすると回収しきれない事が最初からわかっていたから、予めフォローしていたのではないかという可能性に行き着いた。
岩泉の後悔は消して消せるものではないが、「何がエースだ!!!」という自責に叫ぶ背中を叩いた他の3年生、あるいは紙面を追う読者は、岩泉がエースである事に疑念を抱かなかっただろう。
それまでの岩泉が間違いなくエースだったからであり、そしてそれは、積み上げられてきた岩泉の描写からそう思うのである。
確かに岩泉は彼自身の物語は持たず、及川の物語を補助するような役割を負い、その扱いは最後まで対等にはならなかっただろう。ただ、それは扱いが軽かったとか雑だったとか、そう言った類いのものではないと強く感じる。
及川と岩泉は間違いなくコンビとして描かれている。そしてそこに潜む対等と非対等もまた故意なのだと思う。
どこまでも対等であり非対等である様は、時に悲しい。番外編でもそのように感じた人は、あるいは多かったのではないかと思うが、今まで同じ舞台に肩を並べて立っていた2人の間に、別れが潜んでいるように感じるのである。たとえば北川第一時代には共に白鳥沢へのリベンジを誓い、春高開幕前にもその決意を新たにした及川と岩泉であったが、烏野に敗北した後、牛島に宣戦布告する及川は1人だった。及川の未来は影の人物の言葉に、あのトスに、宣戦布告に示されたが、岩泉の未来は特に示されていない。番外編は、ちょっとしたやりとりから彼らの間の対等が崩されていない事こそ示されはしたが、大筋としては岩泉が及川に言葉を贈り、その背を押すように終わった。
私はこの対等であるのに非対等であるアンバランスなコンビが最後までその形を崩されず描かれたところに、悲哀と魅力と愛着を感じるのである。
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