及川徹と岩泉一に関する一考察

漫画『ハイキュー!!』の登場人物である青葉城西高校の及川徹と岩泉一に関して考えたことや思ったことをまとめておくブログです。

ハイキュー!! 141話 感想

冷たい

以下は以前にtwitterで呟いたこと(大地さんが縁下さんたち脱走組を迎え入れるにあたって「優しい」と指摘されたことから派生した)なんだけど、ちょこっと読みやすいように編集はするけどそのまんまもってきた。
及川さんには大地さんのような「優しさ」はないだろうという話をしていた。

強豪だからそもそも縁下たちや京谷のような子がいたとこで気に留めずドロップアウト終了な感じする。
及川さんは京谷に春高前に声を掛けたのかはわからないけど、少くとも大地さんのように説得に向かったりはしていないってあたりの対比。その辺ドライっぽいよね。
大地さんの説得や迎え入れが優しさなのだとすれば、優しさは持ち合わせていないな。
戻ってきづらかろうから声かける、戻りたくないとしたら何が原因で、どうすれば戻ってこられる?そんな気遣いに時間は割かない。
逃げた人が戻ってきても拒みはしなさそうだけど、迎え入れるではない。
迎え入れるのは己の武器になる可能性がある時。全部計算ずく。
大地さんの方は、よくも悪くも思いやりが感じられる。

及川さんは誰かが逃げ出したとして彼の心境を敢えて慮らない気がする。
慮れるだけの洞察力は持っていても。
彼がどう思ったかなどどうでもよくて、最終的に使えるものは使うし使えないものは使わない。

上記は京谷に対する冷たさだ。
それに加えて、今までチームの中で努力してきた矢巾たち(矢巾はセッターだけど)には「今まで頑張ってきたから」なんて感情論的な理由で京谷は出られた試合に出してやる事をしなかった。そんな「情」は存在しなかった。そこにあるのはただ使えるか使えないかだけ。今までチームの中でどんなに努力してこようと、そんなことは考慮しない。これが試合に出させてもらえない(出られない)「俺達」に対する冷たさだ。

実際にはこの冷たさ、ドライさは及川さんだけではなく3年生全体にかかっていった話だった。
たぶんこの情を排除するところって烏野とは違うし(ノヤさんや影山は強豪出身だけあってかそのマインド持ってると思うけど)、それが強豪ってものの一つの形なんだろうなあと思う。

そしてこの「"勝ち"をもぎ獲る為の恐ろしい程の冷静さ」はきっと青葉城西として受け継がれていくんじゃないかなあと思う。
矢巾が建前と言いつつ「そんな事は問題じゃない。勝ちに必要な人間がレギュラーに選ばれる」と言ったからだ。

それと同時に矢巾の本音の「先輩の晴舞台に泥塗ったら絶対に許さねえからな」っていうのは情だ。情以外の何物でもない。
そして矢巾以外の控えの選手の表情を見る限り、その想いは共通しているように見える。
きっとこれも根幹にあるものなんだと思う。それをしっかり大事に持ちつつ、ドライにチームを組み立てる強豪が青葉城西なんだ。

青葉城西というチームが描かれた

というわけで、青葉城西というチームが描かれたんである。
遂に描かれちゃったんである。
今まで及川徹のためのチームだった青葉城西の全体像が遂に描かれちゃったんである。
描こうとしてるんだろうなっていうのは今までの展開でひしひし伝わってきたんだけど、青葉城西の全体像を、次世代が語ったんである。

ああ、いよいよ終わるんだなあと思った。とんでもなく胸が痛い。

私はIH青城戦が終わった時に、もう青城は描かれ切ったと思った。
あの時点での青城は間違いなく及川徹をフィーチャーするためのチームだったと思う。そして、及川徹の物語もIHで全て消化しきっただろうと思った。だから青城も描かれ切ったと思った。
実際及川徹の設定はIHで一度全て消化されたと思う。春高で語られている部分は今後の及川さんの今後への展望というか上積み分だと思う。
だけど青城というチームは「及川徹のための」「烏野の敵である」チーム以外の側面が描かれてこなかった。
しかし古舘先生は「青葉城西というチームとは」や「青城の世代交代」に焦点をあてて第3セットを描こうとしてる(少なくとも今週は!)んじゃないかと思う。やっぱり第2セットまではIH青城戦のおさらいで第3セットからが春高青城戦だった。

話がとびとびになってしまうのだが、春高戦の構造として、対戦相手の課題や世代交代がその試合のテーマになることが多かった。烏野ではなくて対戦相手の方が主人公じゃないの!?みたいな話である。
例外は和久南戦だけだと思う。和久南戦は話の焦点がほぼ烏野にあって和久南はそのあたりがスピンオフ的だったなと思う。
扇南も角川も条善寺も彼らが主人公だった。
で、その3試合を読んでいる時の感覚が今週青城側にも起こった。今週青城が主人公だった。
青城が主人公になってしまった。今まで敵としての側面しか描かれてこなかった青城が主人公になってしまった。
だから第3セットからが他の春高戦と同じように春高青城戦なんだと思うし、今こうして青葉城西というチームが主人公となり描かれてしまったという事は、本当に、本当に青城の物語は消化されてしまうんだと思う。
だからいよいよこの世代の青城の出番は終わるんだろうなあと思った。

問答無用で無慈悲な信頼

無慈悲な信頼ってなんだろうでしばらく固まっていた。

結局「おのれの職分を果たせ、果たせなければお前はコートにいる価値がない」っていう、縁下さんの独白を他者に向けて吐きかけてることだと思った。

あれ自分に言うならかっこいい!でいいけど、他者に吐きかけるとなると、めちゃくちゃ厳しいし、ほんとドS!に尽きるなと思う。
しかもトスで。
トスっていう言葉でもなんでもないその一方的にボールを託すっていうその動作だけで。

結論を先に言ったところで、まずは清さんが言った「チームとは」で言われた重圧について考えたい。
私は最初、重圧とは期待の事だと思った。期待をかけられることは重圧にもなるからだ。
でもおそらく矢巾が「得点も失点もチームのもの」と言ったことから、「個人のパフォーマンスの結果が組織に帰属してしまう」という事が重圧なんだと考えを改めた。

余談だけど、京谷は春高青城戦を通じて描写がある青城側の得点、35点中13点を一人で得点している。チームトップの得点だ。
一方で失点も5点とチームで一番多くの失点を重ねてもいる。
それを踏まえると「得点も失点もチームのもの」という言葉は、誰より多く得点して誰より多く失点した京谷に送られる言葉として重たいものであるし、明らかに京谷のパフォーマンスの結果が組織に帰属していると言っていいだろう。

京谷が「個人のパフォーマンスの結果が組織に帰属すること」をおそらく意識したのは矢巾の言葉の影響だと思う。
それと同時に及川さんから無慈悲な信頼が寄せられた。
この時に京谷は初めて緊迫した表情を見せる。重圧を感じたのだと思う。

おそらく中学時代の描写を見ても、そもそも京谷に重圧を寄せるようなチームメイトではなかったようだし、京谷自身も自分が気持ちよければそれでいいと、チームへのコミットは二の次だっただろう。

相手から重圧を感じるということには技術的なレベルの問題と相手との関係性の問題があると思う。
相手の技術レベルに納得できなければ相手に非があることになり、重圧を感じようがない。
また、相手が重圧をかけてくるような人でなければ、自責の念が強い旭さんのようなタイプでもなければ、重圧を感じることもないだろう

中学時代には京谷は自分のスタンスを崩さず、相手もそれに引いてしまい、相手との関係性の問題でダメだった。
青城の部活に来なくなる前は、おそらく及川さんの前任セッターのトスが京谷にとって技術的に納得できるものでなかったからダメだった。
だから「使えるものは使うけど、使えないなら使わない」という及川さんをはじめとする3年生のドライな重圧をかけてくる態度と、おそらく文句のつけようがない及川さんのトスがあってこそ(それは自分が気持ちよく攻撃してきたこれまでで身をもって実感していただろう)、京谷は初めて重圧を感じたんじゃないだろうか。

これは影山が攻撃の主体はスパイカーであるということを理解するのに際し、身体能力では影山の満足を満たしているにも関わらず、技術的にまったくダメな日向がいたからこそ理解できたという構図と似ていると思う。
影山の方はスガさんの言葉に加え、日向というヘタクソな運動神経の塊がいたから理解できた。どちらかが欠けてもダメだった。
京谷の方は矢巾の言葉に加え、及川さんという実力者セッターがいたから重圧を感じた。こちらもきっとどちらかが欠けてもダメだった。
化学変化だなあと思う。

重圧はそんなところとして、じゃあ京谷にその重圧をかけてきた無慈悲な信頼はなんだったのかというと、及川さんは京谷個人のことなどチームを組み立てる上ではまったく気にしていないということだ。

京谷が欲しいんじゃない。使えるスパイカーが欲しいだけだ。
だから「お前は使えるスパイカーだろう?証明しろ」という信頼をトスの形で投げる。ただ、京谷個人はどうでもいいから使えないなら即刻排除も厭わない。無慈悲だ。

しかもトスって京谷の意図など気にしない一方的なものだから非常に問答無用だ。

だからあれは問答無用で無慈悲な信頼だったんだ。

ビジネスライク

問答無用に無慈悲な信頼とは、つまりただ役目を果たすことを必要とされているということだ。人格などは最低限備えていれば問題にならない。
それは役目を果たせなかった時には排斥されるけれども、逆に人格に問題があろうと職分さえ果たせれば居場所があるという事である。
花巻と松川が「試合で使えるなら別にいいんでない?」「コミュニケーションも含めてだけどな!」と言っている。
つまりいくら人格に問題があっても、仕事上でコミュニケーションに支障さえきたさなければ、ある意味それでいい。

これは私はある意味とても楽な事だと思う。
私はそれを社会人になってから実感した。
友人を作るのがどちらかといえば苦手な私は、中学高校の自由行動や、特に大学の必修以外の授業自由、座る席も不定という環境が地味につらかった。居場所がないような感覚に陥った。しかし、職場は多少それらが苦手であっても、最低限のコミュニケーションが取れるのならば仕事のためという名分で居場所がある。それは楽なことだった。

打ち切った京谷に対して、及川さんは「よく打った」とだけ言う。
これは仕事に対する評価だ。
京谷がどう立ち直ったかなどどうでもいい。ただ職分を果たしてそれが評価される。
それは冷たくて、でもとても楽な事のように思う。
だから京谷にとってもこのシステムはある意味楽なんじゃないかと思う。

高校生のスポーツが社会人の話になってしまったけど、青城に託されたものって結局そういう形なんじゃないかなあと。
青城は綺麗すぎる歯車と表現されていたけど、サラリーマンの事を社会の歯車なんていったりする。
彼らは正しく歯車だ。己の職分を果たして評価をしている。

つまり彼らの関係は形式上ビジネスライクなんだ。

しかも「ビジネスライクと情は表裏一体に存在していていいものである」という描写も入れてきたのがさらにすごいと思う。
どうしてもビジネスライクを描こうとすると無情が強調されがちな気がするけど、建前はそうでも、本音はそうでなくてもいい、仲間を大事に思っていいっていうのが描かれてて、古舘先生好きだ!!と思った。
表面上どこまでもドライに、しかし裏では情に厚く、それがきっちりとけじめをもって表現されてるのがいいなあと思った。

自分がチームを向く、チームも自分を向く

これはつまり就活で言われる学生と企業のマッチングってやつなのかもなと思った。

京谷の話で考える。
京谷は自分が気持ちよくバレーをプレーしたかった。自分の思うようにやりたかった。
ただこれまではそのことでチームにコミットするなんてことを考えてこなかった。考えてこられなかった。およそ彼が悪いとはいえチームメイトに遠巻きにされたり、青城の前セッターに満足できなかったりしたからだ。
でも彼はきっと及川さんと矢巾を通してチームにコミットするという意識を多少得たと思う。
これが自分がチームに向くということ。
そしてチームも、京谷のそのスタイルのままで構わないから、京谷の力を必要とした。
これがチームが自分を向くということ。

この需給のマッチングができれば(ぶつかれば)、お互い求めるものを得るんだからそれは強くなれるだろう。
そしてそれはラッキーなことなんだ。

就活の話にすると就活は自分の力8割、ラッキー2割だと思っている。
就活の場面ではしばしばお祈りされた時に「縁がなかった、運が悪かった」なんて慰めの言葉が使われる。
私は、これについては就活者の力に不足がなければ、実際そうだと思う。2割のアンラッキーだ。
そのアンラッキーというのは、企業の求める人物にマッチしなかったというだけのことだ。
あるいは就職できても、入ってからこんなはずでは…なんてアンラッキーもよく聞く。
マッチする組織に属せるというのは、間違いなくラッキーなんだと思う。

京谷はラッキーだった。
気持ちよくプレーしたい自分と、チームにコミットしてくれるなら気持ちよくプレーして得点してもらいたいチームで、きれいなマッチングが第3セットで起こっているからだ。歯車が噛み合ったんだ。
京谷はいくら自分が失敗したって調子出なくたって結局トスを打ちたかったんだと思う。それと及川さんの方針が合致した。
及川さんのドSトスを、本気で回してくれるななんて思うスパイカーもいるかもしれないけど、もしそんな人が青城にいたらアンラッキーだった。そういう話だ。

表層と裏側

彼らの無慈悲さドライさについて話して来たけど、正直表層だと思う。
及川さんは京谷個人なんて見ていない、どう立ち直ったかなんて気にしていないといったけど、正直見てない訳ないじゃんと思う。
あの観察眼と洞察力に優れた及川さんだ。
他のチームメイトにしたってその辺のセンサーきっちり働いてるようなのばっかりだと思う。
だから裏側を考慮していないわけがないんだ。ただ表面上はどこまでもドライだ。それが本音で建前だ。
本音が円陣、建前が「よく打った」。それが青城なんだ。