及川徹と岩泉一に関する一考察

漫画『ハイキュー!!』の登場人物である青葉城西高校の及川徹と岩泉一に関して考えたことや思ったことをまとめておくブログです。

及川徹は天才ではない

 影山が「絶対及川さんより上手いって言わせてみせます」と牛島に向かって言ったことで、影山は及川が進路に悩んでいたことなど及びもつかないのだろうとふと思った。
 今の影山は及川から宣戦布告をされているから、及川が高校でバレーをやめない事を感覚的にわかっているだろう。しかし、そもそも宣戦布告されなかったとしても、影山は及川がバレーを続けるか続けないかで思い悩んだ末にしないという選択をしかけた事など可能性すら考えたこともなさそうだ。
 及川の悩みはきっと天才には理解されないものなのだ。

 そんな考えを皮切りに、自分の経験に合わせて及川の悩みについて少し思いを馳せてしまったのでまとめておく。

 私には天才と呼ばれた時期がある。小学生の頃、勉強に関して同級生からそう言われていた。
もちろん「公立小学校のカリキュラムの範囲で」「同級生から」呼ばれていた天才なので、井の中の蛙であるのは間違いがないし、それは後々思い知ることになる。しかしとりあえず私は天才と呼ばれていた。
 実際、学校の勉強は苦ではなかった。宿題は嫌いだったけれどもそういう苦ではなく、別に何を勉強しなくてもテストでいい点数を取って、いい成績を貰うことができた。
 なぜ同級生たちができないのか不思議だった。

 天才と呼ばれる人たちが皆そうなのかはわからないが、天才とはそういうものなのではないかと思う。よくわからないけれどもできる。できない気持ちも理由もわからない。

 しかし先程も言った通り私は井の中の蛙だった。中学受験からの進学校での勉強で、授業を聞いてるだけでテストの点がとれるような天才ではないと身をもって思い知った。自主的な勉強をせずに望んだ試験はボロボロもいいところだった。
 天才と呼ばれていた自尊心はいたく傷ついた。どうにか挽回しなければと思った。それまで意識的に勉強をしたことがなかったために、盛大なる紆余曲折はあったが、「自分はいい成績が取れるはず!」という思い込みとプライドから、なんとか自分が点数を取れる勉強方法を見つけて、そして比較的上位で成績は安定していった。
 また同級の友人たちから頭がいいねと言われるようになった。

 しかし天才ではなかった。

 もう天才と呼ばれることはなかったし、自分でも到底天才であるとは思えなかった。

 そして私はいつも恐れていた。
 少しでも気を抜けば、この頭がいいというポジションから転がり落ちていくという感覚があった。「天才」だった頃にはそんな感覚なはかった。
 気を抜かずに勉強しても、いつ綻びが生じるのか、気が気でなかった。なんとかかんとかやっとの思いで点数の取れる道を探してきたから、いつそれができなくなってもおかしくないと思っていた。
いつでも今いるところが自分の限界なんじゃないかと思っていた。
 憑かれたように勉強して腱鞘炎になった。重度ではなかったけれど、一時ペンを握れなくなった。 

 今思い返せば、これは頭打ちへの恐怖だったのだろうと思う。試行錯誤を重ねて探ってきた道だからこそ、いつその先が探せなくなってもおかしくなく、それはつまり「勉強のできる自分」は砕け散ってなくなってしまうということで、それに対する恐怖があったのだと思う。
 限界なんてわからないと澤村は言ったが、そんなポジティブなことは考えられなかった。崖っぷちだった。

 自己投影で甚だ恐縮なのだが、及川の悩みもこれに近かったのではないだろうか。及川は過程への入れ込みがありそうだと思っている。「どうして勝てないんだ」という差し迫った叫びや、「過程なんか関係ない」と言った時の表情などを見ると、及川はなんだかんだ勝つために色々手を尽くしてきたという自負があるのだと思う。
 しかし手を尽くしたといくら主張しようとも、結果は変わらないと痛いほどにわかっているからこそ、関係ないと言った表情は冷静で、それでいて何かを堪えるような表情だったのだと思う。

 及川は常に目の前に見える限界に怯えながら戦ってきたのだろう。尽くせるだけの手を尽くしたという自負があるからこそ、もうこれ以上の手だてがない=自分の限界かもしれないと怯えざるを得ない。

 そういった意識があったために、天才の名をほしいままにする技術を持つ影山が信頼をも理解しようとした時、及川は限界などないかのように伸び代がある影山に、貪欲に伸びていこうとする影山に、いつかの敗北を見たのだろう。
 自分はもういつ打てる手がなくなってもおかしくないのに、影山はただでさえアドバンテージがあるばかりか、打てる手も無限なのではないかと思わされてしまう。

 私は頭がいいというポジションをプライドからなんとか維持しようとしていた一方で、頭がいいねと言われるのがとても嫌だった。
 その結果に至る紆余曲折の過程を誰よりも自分が知っていて、自分の頭がよくない事はわかりきっているからだ。

 及川は、才能が開花するのは明日かも明後日かもと言っていた。おそらく自分には才能がないと捉えていたのだと思うが、そう捉えてしまうのも、自分が悩み苦しんできた過程を誰より知ってるからではないかと思った。上を目指せるだけの才能はないかもしれないと思ってしまうくらいに、突き詰めて思い詰めていたのではないかと思った。

 ここまで好き勝手に自分の経験と重ねてきたが、違うと思うところももちろんある。
 私が限界に対して恐れていたのは、主に見栄からくるプライドが傷つけられることだったが、及川の場合は愛するバレーに見放される恐怖だったと思う。私の経験は所詮虚栄心であり、及川の方が事情は重いのだろう。
 また、私はその恐怖にどう向き合ったかというと、ほどほどに上っ面を補修しつつ、地頭はよくないということを周囲に理解してもらおうと求めてしまっている。周囲に「地頭はよくないけどまあ頑張ってるんじゃない?」という前提で接してほしいと思ってるところがある。ハードルをなんとか下げようとしている。自分はこんなものだから、ほどほどに、お手柔らかにと思っている。
 しかし及川は上がり続けるハードルに立ち向かう覚悟をした。自分はこんなものではないと信じることにした。

 自分の目の前に見えている限界に理解を求めるのではなく、挑戦することを決めた及川はカッコいい。常に限界と戦い続けることはしんどい、容易ではないと実感して、この先もそれがずっと続くかもしれないと、そう考えてもなおその道を選んだのだから、本当にカッコいい。

 及川徹は天才ではない。
 これは覆らないだろうし、そんな悩みを理解しなさそうな影山はやはり天才なのだと思う。
 それでもその垣根をぶち壊して挑んでいこうとする及川とそんな及川に敵わないと思ってるけど絶対いつか抜いてやると思ってる影山のセッター対決構図はきっとこれからも熱い。