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及川徹と岩泉一に関する一考察

漫画『ハイキュー!!』の登場人物である青葉城西高校の及川徹と岩泉一に関して考えたことや思ったことをまとめておくブログです。

岩泉の及川に関する特性

 私はしばしば岩泉を概念化してしまう。

 たとえば鉛筆という言葉がある。鉛筆の概念にはおそらく「筆記用具」という要素があるのではないかと思う。中心に黒鉛素材の芯があって、周りを軸で固め、筆記できるようにしたもの。それが鉛筆だろう。
 ただ実在する個体に目を向けてみると、現実に存在する鉛筆の中には、もしかしたら製造行程にミスがあって芯が入ってないものがあるかもしれない。それが誤って販売されて、使用者がいざ使おうとその鉛筆を見た時、それを芯のない鉛筆と呼ぶと思う。
 概念上では鉛筆ではありえない。黒鉛がなく、よって筆記もできない。鉛筆を構成していた要素はおよそ存在しない。
 しかし概念を離れた現実にはそういった鉛筆もありうるし、それをきっと私たちは鉛筆と呼んでしまう。概念からブレがあったところで、同じものとして認識はできる。

 岩泉は、一個の人格を与えられたキャラクターとして動いているわけだが、現実におけるそういった偶発的なブレがとても少なく感じられるキャラクターなのではないかと思う。
 岩泉とはこうだという設定があるとするとそこからブレることがない。芯が入っていないことがない。そういったイレギュラーの少ない確かさや絶対性があると感じる。

 花巻は腕相撲でどうしても勝てない。
 京谷は挑んだ勝負でことごとく負ける。
 及川に関する対応で間違えることはない。

 腕相撲に強い、あるいはスポーツ万能という設定があったところで、何回かに1回、あるいは特定の分野であれば現実的に考えれば負けがあってもおかしくない。しかし岩泉は絶対に負けない。
 元々は、モブに近い立ち位置であって造形に強く力を入れるべきキャラクターではないから、人間味を出すためのブレ(イレギュラー)を描く必要もなく、また及川の助け船として配置されたために、及川に関して絶対的に正しいという性質が自然と付与されてしまい、その絶対性が他の事柄にも及び、岩泉というある種の絶対性を持ったキャラクターを形作っているのかと思う。
 岩泉に付与されてしまったその確かさや絶対性ゆえに、私はしばしば岩泉を概念化してしまう。
 言えば箇条書きマジックである。白雪姫と眠れる森の美女を箇条書きすると同じ話に見える、そんなマジック。要素を抜き出して、あたかもそれが岩泉であるというような話だ。
 なのでこれからする話はひどく宙ぶらりんでつかみどころのない話だと思う。

 岩泉はたびたび及川が脇の甘いことをすると指摘をするが、それは岩泉の中に理想の及川像があるからなのだろうか。

 結論から言うと私は違うと思う。
 及川徹はこうあるべきみたいなものを岩泉が持っているとすれば、岩泉の指摘は及川に受容されておよそ好ましい結果になっているのだから、岩泉はもっとその結果になんらかのリアクションを起こして良いと思う。
 しかし岩泉は及川に指摘したら指摘しっぱなしなだけで、満足したりする様子もなく、またなんらかの反応を期待してる風でもない。
 だから岩泉の中に理想の及川像があるかというと別にないのだと思う。

 しかし岩泉は及川に厳しい。
 ちょっとの脇の甘さも許さない。

  西谷が自分にも他人にも厳しいと評されていたが、西谷は自分の理想形を基準にして、その上でそれにそぐわない行動に対して厳しくなるタイプだと思う。
 一方で岩泉は理想形を自分の中に抱える厳しさではない。ではどんな厳しさかと言うと、及川の中の基準に照らし合わせるようにして、お前は本当にそれでいいのか、というような突きつけ方をしている気がする。及川徹の中で及川徹はそれでいいのかと問いかけ、内省を促すような、そんな厳しさだと思う。だから及川以外にはあまりその厳しさは発揮されない。及川に要求するのと同じレベルを周囲に求めたりしない。

 それは姿見のようだと思う。

ハルジオン

ハルジオン BUMP OF CHICKEN
http://j-lyric.net/artist/a000673/l0013dc.html

 概念化された岩泉はこれだと思う。
 もちろん岩泉は実在だが、及川の物語の中で担ってきた役割だけに目を当てれば、この「白い花」に限りなく近いように思う。
 及川が何かを見失ってしまった時に、警鐘を鳴らす存在。
 主張が強いわけではない(=主要なキャラクターではない)、ものいうわけではない(=岩泉の言うことは作品通念的であって彼独自のものではなく、新しい概念を持ち込んだりしない)、ただ揺れてそれでいいのか問いかける存在。
 お守りのようなものかもしれない。たとえば交通安全ならバックミラーの横で視界にちらついたり、鞄に忍ばせて鞄を開けた時にちらっと見えたり、そういうことで気持ちを落ち着かせたり元の位置に戻してくれたりしてくれるようなそんな存在なのではないかと思う。

自浄機能

 あまりにも及川の異変に敏感で、かつその異変への対処が的確で、また対処したことに別段何も感じるところがなさそうであるため、概念化された岩泉は及川の中の一機能、自浄機能なのではないかと言う話ばかりしてた時期もあった。
 免疫系は体内にウイルスが入ってきたら勝手に退治始めるのが当然であるような話だ。
 正常に戻すのは至極当然のことであって、だから岩泉は正常に戻った及川に特別のリアクションは起こさない。
 春高烏野戦で「これを3年生最後の試合にするわけにはいかない」と焦る金田一に助言した岩泉は、それを聞き入れた金田一に満足そうな顔をした。
 岩泉は及川の自浄機能ではあるが金田一の自浄機能ではない。だからそこに満足が生じる。
 自浄機能かそうでないかは距離感の問題だろうか。
及川に対して岩泉は限りなくゼロ距離にいるようだから、たぶん及川の一部かのような表現が自分の中でしっくり来てしまうんだろう。