及川徹と岩泉一に関する一考察

漫画『ハイキュー!!』の登場人物である青葉城西高校の及川徹と岩泉一に関して考えたことや思ったことをまとめておくブログです。

岩泉一の物語

はじめに

岩泉一は及川徹のために用意されたキャラクターであるということについては「阿吽考察 岩泉一の成り立ち」をはじめとして、このブログのいくつかの記事で言葉を変え言ってきたことだ。
それについて今も思うところは変わらない。


その一方で、私は岩泉一の物語をずっと求めていた。
大体にしてこのブログがこんな文章量になってしまったのも、岩泉のことが知りたかったからなのだ。
私が惹かれたこのキャラクターは一体何を考えて、感じて、行動しているんだろうと思ったからなのだ。
それを考えている内に、自分の中で筋道がついたり、整理できたりしたことが出て来て、それをまとめていたらこんなことになってしまっていた。
しかし結局、岩泉が何を考えて物語の中に存在しているのかということはわからないまま17巻番外編まで描かれてしまったのだが、「岩泉の物語は最後まで示されなかった」という結末にも私はひとつ満足していた。

ところが、395話になって突然岩泉は彼自身の物語と言うべきものを携えて読者の眼前に姿を現した。

岩泉の物語が示されなかったことにひとつ満足したとは言ったが、それはキャラクターを目立たせることが目的になるような物語が付されなかったことに対する満足だ。
それまでの描写を突飛に覆してしまうようなものが描かれるくらいなら最後までない方が良いと思っていたのだが、この395話と最終話で示された岩泉一の物語はそんな類いのものではなく、ごく自然に岩泉に馴染んでいたものだった。
だから私はとても驚いて、そしてとても嬉しかった。

更にはその物語が示されたことによって、岩泉が何を思ってバレーボールをしてきたのかという題目への答えの断片が見えたような気がしたのだ。

だからここではトレーナーという道を選んで進んでいった岩泉一の物語をなぞっていった上で、彼が何を思ってバレーボールをしてきたのかを追ってみたいと思う。

アスレティックトレーナーの役割と岩泉の性質

そもそもアスレティックトレーナー(以下ATとする)とはどんな職業なのだろうか。

私は全くといって良いほどスポーツ界隈に明るくない。
ハイキュー!!』を読み始めた当初はしばしば烏養繋心コーチのことを監督と呼んでいたし、395話でトレーナーという単語を見た時にも正直コーチとトレーナーの違いがよくわからなかった。漠然と岩泉は選手をサポートする職を目指しているんだなあと思っただけだった。
最終話でATという見慣れない単語に出会ってようやく、トレーナーとはなんなのか、どんな種類があるのかということを調べ始めた。

まずはコーチとトレーナーの違いだ。
コーチは主に技術面での指導を行い、トレーナーは身体面での指導を行うという説明が一番しっくりときた。

395話で牛島が「コーチと試行錯誤している」と語っており、その結果としてスパイクフォームの改善があったものと思われるが、そういう風に適したスイングの方法などを考え教えるのがコーチの役割なのだろう。

一方トレーナーは身体面での指導を行うということだが、トレーナーにもいくつか種類があり、その内のひとつがATとなっている。

トレーナー種類の区分は曖昧なところもあったが、私が調べた限りではいわゆるジムトレーナーであるフィットネストレーナーを除いて以下の4つに分類されていた。

  1. アスレティックトレーナー
    怪我の予防や応急処置を担う
  2. メディカルトレーナー
    怪我後のリハビリ等、競技復帰を助ける役割を担う
  3. コンディショニング(フィジカル)トレーナー
    選手のコンディションを整え、競技パフォーマンスの向上を担う
  4. ストレングストレーナー
    筋力の増強を担う

更にこれを中分類すると1と2は医療との橋渡しとなるようなサポートを行うトレーナーで、3と4は競技に適した身体作りのサポートを行うトレーナーという側面が強いようだ。

この分類を見た時、私は少し意外に思った。確かに岩泉の愛読書は空井の『ケガに泣いた僕がケガに泣きたくない人に見てほしいバレーボールフィジカルトレーニングの本』だった。しかし、岩泉とATのキーワードとも言える「怪我」を結びつけるものもそれくらいなもので、あまり因縁めいたものがあるとは言い難い。
そのため私は無意識に「フィジカルトレーニング」の方に弟子入りの比重が置かれていると思っていた。
この4分類の中で言うならば、3で挙げたコンディショニング(フィジカル)トレーナーのような役割を目指しているのだと395話の時点で漠然とイメージしていて、だから最終話で明らかになった岩泉の肩書について調べた時に意外に思ったのである。

しかしこのATという職について見ていくと、岩泉の性質がよく活かされるものなのではないか、と感じ始めた。

ATは先程の4分類の中では一番現場性が高い役割だ。

メディカルトレーナーの担う分野は怪我後の復帰であるし、コンディショニングトレーナーやストレングストレーナーが関わる心身のトレーニングは基本的に試合前に調整すべき部分だろう。場面は違えど、現状を把握し、計画を立て、時間をかけて達成していく類いの仕事だ。
その一方でATはというと怪我の応急処置という仕事がある以上、練習中にせよ試合中にせよ即時の判断や対応が求められる。

ねんざや肉離れ,打撲などのケガをした選手に応急処置を行ったり,プレーの続行が可能かどうかを判断して監督に伝えたりするのもトレーナーの大切な役割なのです。

(中略)

手当を受けた選手は「大丈夫,できます」とプレーの続行を希望する場合が多いのですが,もしもそのまま試合を続けてケガが悪化したら,以降の試合に出場できなくなるかもしれません。無理にプレーを続けることは,選手自身にとっても,チーム全体にとっても,大きなリスクになります。そこで,状況を冷静に判断できるトレーナーが必要とされます。

(中略)

いまの私は,選手の状態を見極め,ときには選手の「出場したい」という意志に反してでも,慎重に判断を下すことが,トレーナーにとってもっとも大切なことだと思っています。

アスレティックトレーナー 千葉聖さんの職業インタビュー|EduTownあしたね

このインタビュー記事を読んだ時、私は岩泉なら間違いなくこれらのことを的確にやってくれるだろうと直感した。

岩泉の現場での信頼性の高さは本編の端々に現れていたと思う。

土壇場での安定感は作中でもピカ一だろう。チームに迷いや不安が生じた時、的確な言動でその場を収めてきた。
象徴的なエピソードとしては、8巻67話で及川に「岩ちゃんに負けた気分」と言わせ、入畑に「岩泉の1点と一言でチームが崩れるのを免れた」と評価せしめたIH予選での烏野マッチポイントの局面や、15巻132話で京谷の破天荒なプレーに対して戸惑うことなくすぐさまそのプレーが危険であることを戒めたことが挙げられると思う。

色々な思いが交錯して周囲が動けなくなるような時でも、岩泉はシンプルに本質を切り出すことができる。
そしてそれを過大にも過小にも評価しない。
京谷に対しても「無駄に・・・危ないプレーはすんじゃねーぞ」と伝えており、リスクを過大に見て必要以上に制限するような性分には見えない。

だからきっと選手が怪我をした時にも冷静に処置をして、プレー続行の可否についても的確に判断してくれるだろうと思う。プレーを続行することで悪化させてしまったり、逆に適切な処置を行えばプレーを続行できるのにストップをかけることはないだろうと思う。
選手もそんな岩泉の判断を信頼し、良い関係を築けるのではないかと思うのだ。

そしてこれは395話の感想で述べたことにはなるが、医療よりの知識や技術を持ち、それを適切に活かせるということは、バレーボールプレーヤーたちの選手生命を延ばせるということでもあると思う。
完璧に満足なんてできずに一生バレーボールを追っかけて生きていく面倒くさい男を自慢の相棒に持つ岩泉だ。一生バレーボールに向き合って生きていくような人種がいることを知っている岩泉だ。
岩泉がそれを目的にATになったとは思わないが、自分の得た力でそういう選手たちができるだけ長くバレーボールを続けられるようにするというのも、岩泉というキャラクターに合っているのではないかと思った。

ついでを言えば、物語上でもATは好都合だったと言って良いだろう。
ATは先ほども述べたとおり現場性の高い役割であるためと思われるが、いくつかの代表選手団名簿を見てみた限りでは代表チームに帯同しているトレーナーの多くはATの肩書を持っていた。
「戦う時は倒す」と宣言した及川と世界の舞台で対峙するには、ATの肩書はうってつけなのである。

このように彼がATとしてオリンピックの舞台に登場したことは意外ではあったのだが、よくよくその役割を噛み砕いてみると突飛なことではなく岩泉の性質としっかり噛み合っているように感じた。

岩泉のトレーナー像

さてATの役割は岩泉の性質とよく親和しそうだと噛み砕けたのだが、一方で最初にその肩書を見た時の驚きが消えたわけでもなかった。
そもそもなぜ私は岩泉が目指しているのはコンディショニングトレーナーのような役割だと思い込んでいたのだろうか。
それについて考えてみると、17巻番外編を読んだ時から喉に刺さった小骨のように引っ掛かっていた「戦う時は倒す」のせいだろうということに思い当たった。

 このように、番外編でもやはり岩泉は主人公の1人にはならず、2人の間の不均衡は埋まらなかったと感じた。口では「チームが変わっても」「戦う時は倒す」とこれからも及川と同じ道を歩き続けるような事を言っても、外された補助輪のような、厳然たる別れを感じさせるものがあった。
(中略)
バレーに関して言うならば、やはり「戦う時は倒す」の言葉の通りに、これからも同じ道を歩き続けるのかもしれない。
 岩泉が気休めや、あるいは生半可な覚悟で、そういった事を及川に言うとは到底思えないと感じている事もある。

少年期の終わりに―番外編考

「戦う時は倒す」の扱いは小さく、具体性もなく、しかし岩泉がなんの根拠も無しにそんなことを言うとは思えないというモヤモヤを抱え続けていたのだが、それが最終話で一気に晴れた。
岩泉はまさにその宣言を抱えて、したり顔で笑いながら、いざ世界の舞台で及川と戦おうとしていたのだ。

だが選手が怪我などの不測の事態に見舞われた時にその本領を発揮するどちらかと言えば受け身の性質を持つATと、「戦う時は倒す」という攻めの性質を持つ言葉がちぐはぐなように思えた。
もちろん代表選手団はチームスタッフ含めて一丸となって戦っているというのはあるだろう。
しかしそれ以上に妖怪世代の選手たちの後方でどんと構えて笑う岩泉は、さながら鍛え上げたポケモンたちと一緒にバトルに臨むポケモントレーナーのようだった。
選手たちのコンディションをばっちり整えて最強の仕上がりにしてきましたと言わんばかりの位置取り・ポーズ・表情に見えた。
それはおそらくATではなくコンディショニングトレーナーの領域だ。

あるいは、395話感想でも言ったことにはなるが、岩泉は「お前元々「ドガァン!」みたいな感じではあったけどもっと「ドバギャアン!!!」って感じになれると思うんだよ」と言って牛島に動画を見せていた。
岩泉は牛島が「まあまあな選手」で収まってしまうのは嫌だと言う。彼は牛島が「まあまあ」などという器でないことを身をもって知っているのだろうし、牛島の現状のプレーを見て彼ならばもっと強くなれると直観しているのだろうし、だから岩泉の話はそんな展開になったのだろう。

「もっとこうなれるはず」というイメージを持って、それに近づくための方策を考える。

私はこれを岩泉のトレーナーとしての素質の表れだと感じた。
イメージを直観する力は元々持っていたように思う。トスの正確さでは影山に敵わないと拗ねたことを言う及川にずっと不服の視線を向け続けていたのも、その一環ではないかと思うのだ。
あとはそれを実現する方法が問題なのであって、岩泉はそれを学ぶためにケガに泣かないフィジカルトレーニングを実践する空井の元を訪れたのではないだろうか。

この時の岩泉はトレーナーを目指す者の視点から牛島にこの話を持ち出したわけではないと思う。ただの昔馴染みとのバレーボール談義といった風情だ。
とはいえ、自分が強いのは運が良いからだと語る牛島が、岩泉とのやりとりの後に実感をもって「俺はやはり運が良い」とぼやいたのは、このバレーボール談義からスパイクフォーム改善のヒントを得たからなのではないかと思う。
選手がもっとパフォーマンスを上げられるように、そのイメージを掴み、実現する方法を助言する。
そんな一面が垣間見えたのもあって岩泉が目指すものにはコンディショニングトレーナーのような攻めの性質を持つトレーナーの側面があるものだと私は思っていたのだ。

ところで、ATを含めてスポーツトレーナーについて調べていると、何かと兼任の文字を見ることが多かった。
分類や民間資格こそあれ、実際のところ選手の心身をサポートするという点では地続きとなっている職業だ。正式な職務範囲が決まっているわけでもなく、そのボーダーは曖昧なものなのだと思う。実際、それぞれのトレーナーについての説明は1つのサイトの中でも重複するところがあったり、あるいはAサイトではATの説明として挙げられていた言葉が、Bサイトではコンディショニングトレーナーの説明として出てくるようなこともあった。

これらを総合的に考えると、岩泉の肩書は確かにATなのだが、それは日本代表に帯同する立場としての資格や肩書だったと考えられはしないだろうか。彼はATの役割のみに留まらず、選手たちが不安なく最高のパフォーマンスを発揮できるように多角的に助言をする、そんな頼れるトレーナーになっているのではないだろうか。
「ちょうスゲェセッター」の及川がどんなセッターにでもなれるように、岩泉もどんなトレーナーにでもきっとなれる。
そうだといいなあと私は思う。

岩泉は何を考えてバレーボールをしていたのか

ここまでは岩泉の性質と照らし合わせながらどんなトレーナーとなっているのかということを考えてきた。
ここからは視点を過去に戻してみようと思う。

岩泉が何を思いながらバレーボールをしていたのかずっと気になっていたということは冒頭にも述べたとおりだ。
正直に言えば、終章において2度の出番があったとはいえ明確な答えは出せていない。
しかし彼の物語が示されたことによって、今まで為されてきた描写に対して少しあたりがつけられたように思う。
それを明らかにするために、岩泉がトレーナーになると決めた時期と理由について考えたい。

まず岩泉はいつ頃トレーナーの道を選んだのだろうかということだ。

岩泉は大学のスポーツ科学科に進学し、2年次の頭にはもう空井への弟子入りを志願していた。卒業後に渡米して少なくとも2年間は空井の元で修行、27歳で男子バレーボール日本代表の帯同トレーナーとなっている。

この周到さを考えると、おそらく進学先はATの資格が取れるカリキュラムを備える大学を選んだものと思われ、つまり進路を考える頃にはもう「そう」と決めていたのではないだろうか。

原作での描写を追ってみると、42巻367話で自主トレーニング中の及川と行き合った岩泉が描かれていたが、一般の受験生としては正念場になるであろう1月にも関わらず岩泉もまた自主トレーニング中である様子だった。この時期に自主トレーニングかと初めて読んだ時には驚いたのだが、進路がわかってから読み返せば選手同様体が資本となるトレーナーを目指す者として当然のことであるように見える。
また時期としては10月末にあたる番外編での「戦う時は倒す」も、岩泉が見込みのないことを口にするとは思えないためトレーナーという進路を念頭に置いたものだろうということについては言及済だ。

おそらく登場した時には決まっていなかったであろうし、遡るにも限度はあるからいつ頃というのは断言できるものではないが、これらの迷いのなさを見るにそれなりに早くからその未来を考えていたように思う。

次に岩泉はなぜトレーナーを志したのかということだ。
その端緒を開くのは空井の著書『ケガに泣いた僕がケガに泣きたくない人に見てほしいバレーボールフィジカルトレーニングの本』だろう。

この著書のタイトルには2つのキーワードが含まれている。
「怪我」と「フィジカルトレーニング」だ。

ATは前述した通り「怪我」がキーワードになってくる。
ATとして活躍する人のインタビュー記事などを読んでみると、空井のように選手時代に怪我が多かったということや、あるいは自分は怪我をしなくても周囲にそういう選手がいたということをその道を志した理由に挙げている人がほとんどだった。
しかし岩泉はそれに当たらないと言っていいだろう。
自分が怪我をした様子もなければ、周囲で怪我に悩んだ人もいなかった。
強いて言えば2巻で及川が捻挫をしていたが、あれは及川を遅れて登場させるためのただのギミックであろうし、症状も軽く特に大事には至っていないようだった。
「ケガしたら元も子もねえんだ」とは中学3年生の岩泉自身の弁であり、当然避けられる限り避けるべきものだろうが、「怪我」という言葉が特別トレーナーを志すきっかけとなったということはなかったものと思われる。

ではどこに焦点を当てるべきかというともう一方のキーワードである「フィジカルトレーニング」、体を鍛えることなのではないかと思う。

直接的な描写は何もないが、岩泉は体を鍛えることが好きだと思う。
たとえば能力パラメータだが、パワー・バネ・スタミナ・頭脳・テクニック・スピードという6項目が用意されている中で、身体能力に左右されるであろうパワー・バネ・スタミナ・スピードについて岩泉は軒並み4か5の高い数値を持っている。
また、15巻132話で示された京谷との身体能力を競うような勝負や、花巻の「腕相撲でどうしても岩泉に勝てない」という悩み事、2019年年明けの挨拶イラストで腕相撲チャンピョンの座についていることなどからも、フィジカルの強さや運動面での勘の良さのようなものが岩泉には言外に意識されていたように思う。

中学の頃から、監督の言葉を借りたような台詞ではあったが「オーバーワーク」や「ストレッチ」、「ケガしたら元も子もねえんだ」と体を適切に管理することに意識が向いていることも考えると、トレーニング方法に関心を持ち、トレーニング本も色々と見ていたのではないかと思う。
レーニングに関心があって色々見てきた中の1冊が付箋まみれにした空井の本であってこそ、弟子入りしたいという熱量も伝わってくるというものだ。

「ケガに泣きたくない」ということも間違いなく重要だろう。
大きな怪我に泣くことはなかったが身近にいた及川も無茶をしがちなタイプだっただろうから、思うところもあったかもしれない。
しかしやはり「ケガに泣く人を見たくないから」ではなく「トレーニングが好きでそれを活かす場があり、しかもケガに泣く人を減らせる可能性があるから」トレーニング方法や応急処置の技術を学ぶという方がしっくりくると感じるのだ。
岩泉にはそれくらいの自分本位さがあるのではないかと思うのだ。

以上から時期と理由については、岩泉は元からトレーニングに関心があって、比較的早い段階からトレーナーの道を志していたと考える。

では岩泉にとっての部活はなんだったのだろうか。何を思ってバレーボールをしていたのだろうか。

前述の経緯をもってトレーナーになるための準備期間として部活・バレーボールを見ていたと仮説を立ててみよう。
ーー立ててみようとは言ったが、そこから先、一歩も前に進めないほどの強烈な違和感がある。
確かに高校時代の描写から岩泉のトレーナー的な性質を拾うことはできる。
しかしトレーナーのようなことをしていたかというとそんな事は全くないし、日々の練習や試合の前提にトレーナーがあったとはあまり思えない。

「ウシワカ」が「まあまあの選手」なんてのは嫌だぜ ずっと負けてきた身としてはよ

俺は180cmも無かったからな ずっと試行錯誤してた

395話


あれを決められずに何がエースだ!!!

17巻148話


相手の完璧な一発を拾うレシーブの快感を知って良かった

16巻144話


岩泉のサーブも強烈になってた筈

15巻130話

岩泉は間違いなく競技者として最後の最後まで真剣に研鑽を積んでいた。その道に進まないからと選手としての自分に妥協などしていなかった。
だからスパイカーとしての揺るぎない自負を持っていて、日本代表となった牛島に正面切ってついぞ自分が勝つことができなかった選手が「まあまあ」で収まってしまうのは嫌だと言えるのだろうし、何がエースだとその一本に凄まじい後悔を覚えるのだろう。

岩泉は間違いなくバレーボールという競技に選手として真正面から向き合っていて、どうすればもっと強くなれるのか、上に行けるのか、ずっと考えていたはずだ。

だから「トレーナーになるための」バレーボールではなかったと思う。

ここでもうひとつ仮説を立ててみることにする。

その向き合い方の真摯さから競技選手となるつもりで部活にも向き合っていた可能性だ。
すなわち、トレーナーの道というものは本来目指していたものではなく、競技選手にはなれないという判断の上での次善策ということになる。

しかしこれについても私は異を唱えたい。

岩ちゃんは諦めもよさそうだけど、でも自分でやりたいと、できると思ったことなら諦めるなんて選択肢が浮かばない子だと思います。

岩泉一の今後

引用元の記事で言葉を尽くしてきたことにはなるが、岩泉が競技選手になりたかったとして、実力やセンス、体格などを理由にそれを諦めざるを得ないようなことがあるだろうかというと、それはないと言い切ってしまってもいいと思う。
終章では多くのキャラクターたちの現在が示された。競技選手としてバレーボールを続けている者も、そうではない者もたくさんの道が描かれた。

しかしそのどれひとつを取っても諦めがあったようには見えなかった。
現実にはきっと諦めざるを得ない人もたくさんいるだろう。けれど『ハイキュー!!』は良い意味でどこまでもフィクションで、少年漫画で、夢がある。

全員が宮治のように、影山美羽のように、自分の中の優先順位をしっかり持って選択しているように見えた。

だから岩泉もきっと次善の道に進んだのではないと思う。トレーナーは競技選手以上に彼にとって目指すべきものだったのだと思う。

さて、2つの仮説を立ててみたが、トレーナーになるための部活をしていたわけでもなく、競技選手になるための部活をしていたわけでもない。それでは岩泉は何を考えてバレーボールをしていたのだろうか。
そう考えた時にたどり着いたのは、岩泉はただバレーボールをしていたということだった。

これはなんの答えにもなっていないように聞こえるかもしれない。書いている私すらも煙に巻いているようだなあと思う。

私は常々、岩泉は過去・現在・未来で言うと、現在への指向性が高いキャラクターだと思っていた。

目の前の相手さえ見えてない奴がその先に居る相手を倒せるもんかよ

8巻67話

この台詞は象徴的だが、金田一にも「どんな時だろうと重要なのは目の前の一本だけだ」と諭したり、「これでチャラな」や「俺に勝負させろ」の一本に見える不言実行な態度であったり、過去をあまり引き摺らない様子であったりと、過去や未来ではなく今現在に向き合っているキャラクターになっていると思う。

だから目の前のバレーボールにも、トレーナーを志しているだとか競技選手にはならないだとかに関係なく、ただ強くなることを目指して試行錯誤を繰り返していたのではないだろうか。

そもそも私がこんなことを気にし始めたきっかけはというと、種々の描写から実力の面で差があることが明白な及川を相棒とする岩泉がどういう気持ちでプレーをしているのかわからずに寄る辺ない思いをしたことだった。

終章が始まるまで多くのキャラクターたちはバレーボールの渦中にいた。
確かに関わってくる大人たちは競技選手以外の道を歩んできた人たちが大半であって、バレーボールの外の広がりもきちんと描かれていた。
しかしやはり焦点となるキャラクターたちがバレーボールの渦中にいるがために、読者である私は勝手に「バレーボールの実力」というものを彼らを測るひとつの尺度としてしまっていたのだ。
だから岩泉と及川の間にある「差」を大きな溝のように重く見すぎてしまっていた。

今思えば馬鹿な話だ。
そんなことは全く重要ではなかったのだ。

岩泉はただ本気で目の前のバレーボールに向き合ってきた。
それには及川も何も関係ないのだ。
及川の付き合いでやっていたわけでもない。
及川との評価の差に何を思っていたわけでもない。
きっとただ自分のバレーボールをしてきただけなのだ。

岩泉と及川の対等

これが最後になる。
自分の中で抱えていた岩泉と及川に関する最後の問だ。

及川さんと岩ちゃんのお互いの主観は間違いなく対等だ。同じレベルにいる。今週読んでなおさらそう思った。
でも客観では明らかにと言っていい程度の差があると思う。外野の認識では青城は及川とそれ以外だ。及川以外は及川に霞んでるけどレベルが高い程度の認識だ。及川以外の名前認識されてるの?って感じだ。あと前にどこかで長々書いたから省略するけど、牛島の認識が客観性高いと思うので「及川以外弱い」もある。岩ちゃんはその及川以外なのである。
この客観の評価が耳に入らないわけないと思うし、耳を塞ぐ二人でもないと思う。この客観はこの客観でどうやってか対等であるという主観と折り合いがついてるんだと思う。

146話感想

この146話感想で述べていたとおり、どうやって客観の非対等な評価と主観の対等な認識が折り合っていたのだろうかということだ。

客観的な非対等と言ったが、岩泉も60話では「人より体格に恵まれていた センスにも恵まれていた とくに中学に上がってからの及川の上達ぶりは群を抜いていた」とモノローグを残していたり、番外編で「一生バレーを追っかけて生きていく」と他人事のように言っていたりして、競技について及川より一歩引いている雰囲気があるとずっと感じていた。
一方で彼らはなんの優越感も引け目もなく「お前は今までのいつ俺に勝ったんだ」「全体的にいつも俺が勝ってる」、「でも戦う時は倒す」「…望むところだね」とやりあう。
その非対等と対等の溝を埋めていたものはなんだったのかずっと不思議だったのだが、岩泉の進路を見てようやく気付くことができた。
そもそも及川と岩泉はバレーボールプレーヤーという領域だけで張り合っていたのではなかったのだ。
岩泉が1点と一言でチームが崩れるのを防いだ「チャラな」の一本に対して、及川は「岩ちゃんに負けた気分」と言う。この負けた気分というのもバレーボールの腕前について言っているのではない。チームの動揺につられることなく、淡々と役割を全うし、チームのペースを取り戻す一言を的確に発した岩泉に及川は負けた気分になったのだろう。

彼らが張り合っていたもの、それはきっと生き様だ。

バレーボールの実力差などその一端に過ぎない。
相手が一歩前に踏み出せば、自分も負けじと二歩踏み出す。
及川は単身アルゼンチンに渡り、帰化して代表権を得てオリンピックの舞台に姿を現す。
岩泉はATの資格を取りながら実務経験を視野に入れて自分で弟子入り修行への道筋を付け、日本代表の帯同トレーナーとなる。
生半可なことはしていられない。
全部引っくるめて彼らは互いの生き様に負けまいとここまできたし、きっとこれからもそうなのだ。
セッターとエースという関係だけではない、チームが変わっても対等に張り合っていける自慢の相棒なのだ。

おわりに

岩泉一は及川徹のために用意されたキャラクターと言ったとおり、彼は『ハイキュー!!』という作品の中では珍しくバレーボールを核に持たず、及川を核に持って存在していたと思う。
及川という核から離れてしまったら、岩泉は岩泉として存在できなくなってしまうのではないかと思っていた時期すらあった。
しかし終章で岩泉は及川の関与しない彼だけの物語を得た。
岩泉と及川はそれぞれ独立した道を突き進む。お互いに遅れを取らないように全力で突き進む。
2つの物語はいつかまた交わることもあるのかもしれない。

それは番外編を読んだ時にも思ったことだったが自分の願望だけではあまりにも切実だった。
でも今はそんな空想を当然のようにすることができる。

なんて充足感だろう。
なんて幸せな最終回を迎えられたんだろう。

岩泉というキャラクターを好きになれてよかった。
ハイキュー!!』という作品に出会えて良かった。

大きな物語をまとめながらひとりひとりのキャラクターを最後まで大切に描ききった古舘先生に敬意を表して、筆をおくことにしたいと思う。

ありがとうございました。