及川徹と岩泉一に関する一考察

漫画『ハイキュー!!』の登場人物である青葉城西高校の及川徹と岩泉一に関して考えたことや思ったことをまとめておくブログです。

終章に寄せて② 影山・金田一・国見のこと

理不尽

ハイキュー!!』の好きなところのひとつで、ずっと言いたいと思っていたけれど、最終回を迎えるまでは言い切れないことだなと思ってあまり口にはしてこなかったことがある。

それは『ハイキュー!!』という物語の中で理不尽がほとんど敵にならなかったということだ。
理不尽がなかったとは言わない。しかし遂ぞ話の主題となることはなかったと言ってしまって良いと思う。




ここで言っている理不尽が何かというと、外的要因が登場人物たちを苦しめることだ。
たとえばスポーツものなら主人公たちを痛め付けたり苛めたりするような選手がいるだとか、高圧的で傲慢に従わせようとする大人がいるだとか、家庭環境が悪くスポーツに打ち込むことができないだとか、そんなようなものだ。

理不尽という要素は物語をドラマチックにしてくれると思う。登場人物たちに降りかかる悲劇に同情し、それでもなおその困難を乗り越えようとする彼らに胸を打たれるのだ。
実際私も理不尽が次々と襲い来るような物語で好きな作品がいくつもある。
その理不尽を描くということももちろん容易いことではないだろう。しかしやはりドラマを演出しやすいという側面はあると思うのだ。だからドラマチックな話には大体理不尽が入ってくるくらいに思っているのだが、『ハイキュー!!』ではその理不尽がほとんど見られなかったと思う。
無責任に言いたい放題言うような勝手な外野はいるのだが、概ね登場人物たちに強く影響しているようには見えないノイズであるように見えるし、すでに手にした力で外野を黙らせていることが度々ある。
また、しばしば子供を縛る立場となりうる大人にしても登場するのは良識ある人たちばかりだ。
だから『ハイキュー!!』の登場人物たちは理不尽とは戦わない。それでもこんなにもドラマチックな話が描けるのはすごいなあと思ったのだ。

では何が『ハイキュー!!』をドラマチックにしていたのだろうか。

たとえばベストエピソードで上位に選ばれた「才能とセンス」「月の輪」「返還」「ハーケン」だが私もどれも指折りに好きなエピソードだ。
そして私がこれらのエピソードに共通していると感じているのは、どれも自分というハードルを乗り越えた瞬間が描かれているということだ。
「才能とセンス」については「阿吽考察」で及川が自分を乗り越えるまでについて解釈してきたが、「月の輪」・「返還」・「ハーケン」も、月島・影山・日向がそれぞれ自分の抱えている困難や課題と向き合い続けて、答えや結果を掴みとったものだろう。
ハイキュー!!』には、確かに倒すべきライバルたちがいる。しかしコートの向こう側にいるやつらの攻略・倒し方を主眼とするのではなく、自分と向き合って成長して上を目指していく話だったと思う。
才能へのコンプレックス、夢中になることへの忌避感、我を主張して仲間を失うトラウマ、自分で「考える」ということ。
外部の理不尽とは戦わない。
ライバルたちは色々なスタンスを持ちながらも、それぞれ周囲に敬意を払ってバレーボールをしているし、大人たちは良識的で彼らの指針ともなってくれる。だから登場人物たちは何か問題が起きた時に誰かのせいにさせてもらえない。
自分の中の問題に向き合って答えを見つけて自分を変革していくしかないのだ。
世の中にはきっと理不尽が転がっている。それでもおそらく敢えて描かずに理不尽とは対峙させないでとことん自分と向き合わせている。とても優しくて厳しい物語だと思う。
それが理不尽と戦わずして物語をドラマチックにし、読者の心を動かしているのではないかと思う。

さて、私がこの排除された理不尽の話をしようと思ったのは最終回を迎えてはっきり理不尽と戦う話はなかったと言い切れると思ったというのもあるが、もうひとつ、401話で影山・金田一・国見たちが抱えていた問題があまりにも美しい清算を見たからだということもあった。

影山たちが3年生だった頃の北川第一がチームとして破綻した原因はなんだったのかということについては、60話発表当時や単行本収録時、アニメ放映時などのタイミングなどでしばしば議論の俎上に載せられていた。
ひとつに及川・岩泉の影山を排除するような姿勢が後に影響を及ぼしたとする説があった。これについては「60話考」「60話再考」でそうは読めないと重ねて書いてきたところだ。当時の状況も15巻128話や44巻387話などで断片的に描かれてきたが、いずれもやはり及川や岩泉が後に悪影響を及ぼしたような描かれ方にはなっていないと思う。
そしてもうひとつよく目にしたのは北川第一の監督が悪いという説である。公式試合中にスパイカー達が敢えてセッターの上げたトスを打たないなどという状態になってしまうまでにチームの軋轢を放っておいたという理由からだろう。
それに関しては言わんとすることはわかるのだが、ただこれに関してもやはりそうは読み取れないように思う。作中で特段この監督が悪いという描写になっていないからである。
北川第一の監督は不幸を植え付ける理不尽な大人としては描かれていない。そこまでキャラクターとして立ってはいないと言ってしまってもいい。だからこの話は理不尽な大人がいたせいで歪みが直せなかった可哀想な影山たちという文脈ではないだろう。というより、その読み方では勿体ないとすら思うのだ。

影山と金田一・国見の決別の原因は自分達のコミュニケーション不全に尽きると考える。
影山は自分の中の理想ばかりを追いかけて個々のチームメイトを見なかったし、金田一らも影山に対して伝えることを諦めてしまった。
そしてその結果起きてしまった事件は、全員に苦い記憶として刻まれた。おそらくその時点では完全なる決別だっただろう。

しかし高校生となり、烏野の仲間たちに出会い変化していく影山を見て金田一や国見は驚いたり、悔しいと独りごちたりした。対する影山も金田一が及川のトスで持っていた力を発揮したり、国見が試合中に笑っていたりしたのを見て、自分が引き出せなかったものに気付いてショックを受けた。

自分達の決別についてどちらも心からそれでいいとは思っていなかったからこその反応だろうし、進路を別ったその先で良いバレーボールができているお互いの姿を見て、もしかしたら自分達もそんな風にバレーボールができたかもしれないと思ったのではないかと思う。
何か間違っていたかもしれない、やりようがあったかもしれないというのは、過去の自分への反省だ。
影山はあの事件をずっと抱えて「ベストを尽くしている自分」と「自分が間違っている可能性」との折り合いを考えていたし、金田一は影山のことを何かと気にしていた。
そうやって足りなかった過去の自分と向き合い、乗り越えて成長していくのが強くて熱いと思っていたから、あの事件の原因の一端を北川第一監督という、よくわからない人に担わせてしまうのは勿体ないと思っていたのだ。

そんなことをずっと胸の片隅に置き続けて『ハイキュー!!』を読んできたところで、401話である。

影山が言う。「また一緒にバレーをやろう」と。

頭をガツンと殴られた。

中学で決別し、別の高校に進学し、卒業後も国見はサラリーマンとなる予定で、金田一は同じリーグに身を置いているとはいえDivision2のチームであり、対する影山は海外移籍も視野に入れる日本代表だ。

それでもいつかまた一緒にバレーができる。お互いがやろうと思えばできる。
当たり前と言えば当たり前のことなのだが、考えもしなかったし、彼らの関係についてここにきてそんな展開が待っているだなんて思いもしなくて脳が揺さぶられた。

影山は、金田一と国見を見かけたからその場の思い付きであの言葉を言ったのではないだろう。
及川の下で伸び伸びとプレーしている2人を見て「アンタみたいな人にどうやって太刀打ちすれば」と影山は思った。中学3年の自分にはできなかったことであるし、IH予選の段階であっても影山にとって金田一や国見と一緒にプレーするということは難しいことだったのだろう。
しかしその後もチームやコミュニケーションと向き合い続け、自分のやり方を見つけていく内に、きっと今の自分なら彼らとバレーボールをすることができるのではないかと思えるようになったのだと思う。
今度こそ一緒にプレーをしたいと、ずっと思っていたのだと思う。
それを口にする機会を得られたのが、たまたまあのADvsBJの試合の直後だったのだ。

そしてそれを受けた金田一たちは一瞬戸惑う。
それはそうだろう。今いる舞台がそもそも違うのだ。
しかし「おっさんになってからでもじいさんになってからでもいい」と続けられた影山の言葉を聞いて金田一は「おう やろう」と当然の顔で返した。
国見も口を尖らせて条件を色々つけるが嫌ではなさそうな様子であるし、なにより70歳の影山によるジャンプサーブを取る具体的な想像までしているあたり、きっと満更でもないのだろう。
彼らも彼らで、もう一度があるならとずっと胸につっかえていたものがあったのだと思う。

もう一回がないものももちろんある。
しかし、もう一回ができるものもたくさんあるのだ。

自分達のコミュニケーション不全が起こしてしまった事件を抱え、それぞれが自分と向き合って、乗り越え、あの日できなかったことのリベンジを「約束」した。
もう彼らの道が交わることはないんだろうなあと思い込んでいた私は締め付けられるような気持ちになった。
これは決別の原因が自分達の未熟さにあって、それを自覚して成長したからこそ生まれる凛とした美しさだと思う。
やはり北川第一監督だとかの外部要因にその原因を担わせてしまうのは勿体ない。
彼らは強い。
可哀想だった、不幸だった、周りが悪かった。
理不尽を探してそんな言葉を差し向けて、守ってやる必要がないくらいに強い。
私はそんな彼らに勇気付けられるのである。

可哀想

前段で「可哀想だった」という言葉を使った。
この「可哀想」という言葉だが、一時期全国に行けない及川に対してよく向けられていたように思う。
また作中でも折々で出てきた言葉だ。
IH予選青城戦でピンチサーバーを任され、その役割を果たせないままコートを去った山口に対して、及川の応援をしていた女子がカワイソーと言った。
2mの百沢を擁する角川学園と戦う烏野を見て、中学バレーの顧問の先生は体格差を可哀想と言った。
国見の嫌いな言葉第一位は「かわいそう」だ。
また春高で井闥山が負けた時に負傷した飯綱に対して佐久早は「「可哀想」とは言いたくない」と言い、それに飯綱は「いや俺は可哀想だろ!」と返した。

この可哀想という言葉を気にし始めたのは、及川に対して可哀想というのは違うだろうという思いをずっと持っていたということがある。
そして更に国見の嫌いな言葉第一位に選ばれたところで、『ハイキュー!!』における可哀想の立ち位置を意識し始めた。

国見は要領が良いキャラクターである。
練習でも試合でも力を抜けると思った局面では遠慮なく楽をして、常に余力を残している。
それは余裕にも繋がり疑似ユース合宿では日向や黄金川に研究されていたりもした。
バレーボールに限らず普段からその調子なんだろうとも思う。
そういった余裕のあるキャラクターに対して、そもそも「可哀想」という言葉が投げ掛けられる場面というのが思い浮かばず、なぜ国見の嫌いな言葉第一位に選ばれたのだろうかと不思議に思っていた。

しかし、401話を読んでいてふと国見は自分の所属するチームに投げ掛けられる「可哀想」を憎んでいたのではないかと思った。
北川第一にせよ青葉城西にせよ、「レベル高いのに白鳥沢がいるから全国に行けなくて可哀想」とは言われていた可能性が高そうだし、中学3年の頃には「独善的なセッターに振り回されて可哀想」などと言われていた可能性もある。
確かに国見はたとえば影山の独善に本気で苛立っていたとしても外野から可哀想と同情されるのは嫌がりそうである。

国見はそもそも影山と反りが合わないところがあるのか金田一より影山に対して厳しめで、かつ影山に対して抱える感情はあまり表だって描写されてはこなかった。
しかし自分のチームのセッターが独善的で、それをどうすることもできずチームが破綻してしまったことについて、不運だったとは思っていなかったと思うのだ。

「可哀想」とは同情の言葉であって、その言葉をかけられる人が原因ではないこと、理不尽なことで苦しんでいる時に使われるのが基本だと思う。
井闥山の飯綱が「俺は可哀想だ」と言ったのもそういうことではないだろうか。佐久早にすら準備や自己管理を怠らなかったと思われているのに、最後の春高で怪我をしてしまったのは不運としか言いようがない。だから飯綱は可哀想なのである。

国見は可哀想という言葉を一番に嫌っている。それは外野が勝手に国見の境遇を不運で理不尽なものと判断して同情されるのが嫌だったのだと思う。
国見は影山に間違いなく苛立っていたし、必死になれと押し付ける影山と反りも合わないと思っていただろうし、あの事件についても影山が悪いと思っていそうだ。
それでも影山がいたせいで自分が不運な目に遭ったとは思っていない。可哀想と外野から言われるような目に遭ったとは思っていない。影山を追放したのは間違いなく自分達の意志であり、それを誰かのせいにはしない。
だから影山を見る目を変化させていくことができたのだろうし、401話で影山に「また一緒にバレーをやろう」と誘われた時にもそれを拒絶することはしなかったのだと思う。

国見に限った話ではない。
ハイキュー!!』の登場人物たちは、可哀想という言葉が似合わない。
山口のピンチサーバー起用に際してカワイソーと言った女子に否定的なニュアンスで嶋田が語ったように、皆自分の意志でコートに立っている。そしてそこで起きたことを誰かのせいにしたりなどしない。誰かのせいにしたらそこで止まってしまう。
そうではなく失敗も悔しさも全部を糧に前に進んでいくのだ。
それがカッコよくて、強くて、熱い物語を産み続けているのだと思う。
私はそんな『ハイキュー!!』が大好きなのである。


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