及川徹と岩泉一に関する一考察

漫画『ハイキュー!!』の登場人物である青葉城西高校の及川徹と岩泉一に関して考えたことや思ったことをまとめておくブログです。

終章に寄せて③ その他のこと

何度でも強さを捨てる

春高予選白鳥沢戦はコンセプトの戦いだったが、395話を読むまで私は正しく理解できていなかったのかもしれないと思った。




アリー・セリンジャー氏の言葉、「未来に発展も変革も無いと信じる理由は無いのである」というモノローグに被せて、鷲匠監督は苦虫を噛み潰したような表情をした。
この時私は変革とはなんだろうと思った。
あんな表情をするのだから烏野あるいは日向を見て鷲匠監督には間違いなく思うところがあったはずだ。
だから守るべきスタイルがなく使えると思ったことはなんでも取り込んでいく烏野がその象徴なのだろうかと思ったのだ。
しかし一方で白鳥沢戦のサブタイトルとでもいうべき「コンセプトの戦い」は、烏野の新しさと数での撹乱、白鳥沢のオーソドックスな高さとパワーでの勝負、どちらも否定しているとは思えなかった。
では変革とはなんなのかとなんとなくもやもやとしたまま終章まできてしまったのだが、395話を読んで変革はオーソドックスな戦法にも起こし得るものなのだとようやくわかった。
60話再考」で、チームの重視と個の重視とは並び立つものではないと思い込んでいた話をしたが、またここでもオーソドックスと変革について先入観があったのだ。

牛島は父が言っていた「こいつに上げれば絶対に決めてくれる」と思わせる選手を目指し続けているし、加入したシュヴァイデンアドラーズは「チームの個々が、常に個の頂点を目指し、「王者の集団」を目指す」ことをコンセプトにしている。

対するムスビイブラックジャッカルは「優れたチームワークを目指し」「どこよりも、誰よりも貪欲なチーム・選手になる」ことをコンセプトにしている。*1

Vリーグという次元に至っても、烏野と白鳥沢がぶつけ合ったコンセプトが存在し続けているということは、やはりどちらも否定されるものでもなければ、それによって強弱か決まるという話でもないことを強く証明しているといっていいだろう。

牛島は手にした強さを何度でも捨てる覚悟をもってオーソドックスな強さの道を突き進む。
それは古くからある道も新しい道も同様に変革できる可能性があることを示してくれた。
先入観の壁をまた打ち壊されたのが気持ちよくて自分は堅物だなあと嬉しくなってしまった。

みんなの進路

終章が始まってから最終回に至るまで情報が氾濫する勢いでたくさんのキャラクターたちの進路が描かれていった。
その中には意外なものももちろんあったが、言われてみるとみんな「らしい」道を進んでいるなと感じた。

私は『ハイキュー!!』という物語にはバレーボールを核に据えた群像劇のような側面があると思っている。バレーボールという競技や部活に対するそれぞれのキャラクターのそれぞれのスタンスが描かれて物語が紡がれていく、そんな話だと。
しかしそれぞれのキャラクターたちはその核から多かれ少なかれ離れていたとしても、彼らは説得力をもって今を生きていた。

バレーボールから離れているのに「らしい」と感じるというのはどういうことかというと、バレーボールに関わらない部分の性質が、何気ない会話やプロフィール、あるいはプレースタイルなどからもそのキャラクターらしさというものを受け取っていたということだと思う。
私は『ハイキュー!!』はそんなにキャラクターをガチガチに立ててくる作品ではないと思っている。
主要なキャラクターとして造形に力が入っていると感じるのは各チーム1人か2人くらいであとは隙間を埋めるように作られているように思う。
しかしそれと同時にその一人一人に対してとても真摯だなあと思う。隙間を埋めるようだけれども、登場して話や試合が進む内に、無個性ではなく、目立ちはしないけれどもそれぞれ別個にどこかにいそうなキャラクターになっているのだ。
多様性という言葉でまとめると小さくなりすぎてしまう気がするが、とてもキャラクターの多様性に溢れている。
そして高校を卒業した後のバレーボールとの関わり方も多種多様だ。
競技者としてトップを走る日向や影山のような選手もいれば、Vリーグで競技を続けながら仕事で好きなことをやっていそうな月島のようなタイプもいる。選手ではなくても、トレーナーとして選手を支える岩泉や、協会に就職してバレーボールの普及に励む黒尾、スポンサー・インフルエンサーとして支援する孤爪のように競技を支えるキャラクターたちもいる。
バレーボールとの関わりについて示されていないキャラクターもたくさんいる。

そこそこでふと皆「らしい」道に進んだなあと思ったのだが、反対側から見てみると今を「らしく」生活している人たちが学生時代にバレーボールをやっていたということなんだなあと思ったのだ。
きっと私の周りにも彼らはいるんだろうと感じたのだ。職場の同僚だとか、応対してくれた店員さんだとか、インターネットでゆるく繋がっている人だとか。
バレーボールを核にした話だが、いつの時点でもその人はその人として描かれている。だから核から離れてもその人らしく生きている。
現実世界ではもちろん当たり前のことなのだが、それが架空の世界で描かれているのがすごいなあと思った。

新世代

終章に入ってからしばらくして、『ハイキュー!!』という作品がどう終わるのかということを考えるようになった。
そこでひとつ思ったのはおそらく勝敗はつかずに終わるということだった。
及川が一生満足できずに追いかけていってしまうように、日向がオリンピックで何回も金メダルを獲らないと後悔するかもと言ったように、牛島が何度でも強さを捨てるように、自分の道を切り開いて試合に負けた及川と試合に勝ったけれども調子に乗れない影山がいた春高予選青城戦のように、決着はつかないのではないかと思った。

実際にオリンピックの日本vsアルゼンチンも、世界クラブ選手権のアリローマvsアーザスサンパウロも、なんならBJvsADも、月島が言ったように始まって終わった。

突然だが私は今年32歳になる。
円周率はまだ3.14だったが、いわゆるゆとり世代だ。
子供の頃、競争に対して否定的な空気が流れていたのをなんとなく覚えている。
学校の成績の評価の方法を相対評価から絶対評価に変更しただとか、順位を張り出すのをやめただとか、あるいは手繋ぎゴールだとか、実施されたり話題になったのはこの頃のことだったと思う。
おそらく名曲として後世に名を残していく「世界に一つだけの花」もこの頃だ。

競争に力を入れるよりも、個性を尊重して考える力を身に付けようみたいな雰囲気だった気がする。

ゆとり教育は日本の競争力を落としただとかしばしば批判の対象になるけれども、渦中の自分としてはまあ必要だったんじゃないの、と思っている。

過熱する競争社会に疑義を投じようとしたのがゆとり教育だったと思う。
でもたぶんある程度競争というものは必要なのだ。
上を目指して切磋琢磨していかなければ良い結果は生まれなくなっていく。

だから今はそんなに競争に対して否定的な雰囲気は感じない。かといってゆとり教育が不要だったのかというと、不要でもなかったのではないかと思う。
何のための競争なのかを見つめ直すために必要は期間だったのではないかと思う。
ゆとり教育の失敗が取り沙汰されてからも「世界に一つだけの花」は変わらず名曲として存在しているように。

特別『ハイキュー!!』がそれを意識して描かれているとは思わないが、競争に肯定的で勝つことを目的にしているがその結末にも見えるように勝敗に重きをおかないところは、ゆとり世代の意味を乗り越えた競争の肯定があって、好きだなあと思うところなのである。


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*1:チーム概要については古舘先生書き下ろし