及川徹と岩泉一に関する一考察

漫画『ハイキュー!!』の登場人物である青葉城西高校の及川徹と岩泉一に関して考えたことや思ったことをまとめておくブログです。

はじめに

このブログは考察と銘打っていますが、はじめに考察の定義について考えさせてください。

ぐぐってみると考察とは「物事を明らかにするためよく考え調べること」とあります。物事を明らかにするとはどういう意味かというと、色々あると思います。正しさを証明することかもしれません。間違いを指摘することかもしれません。目的によって色々あると思います。

私がこれらの考察をした目的はとても単純です。
「私は『ハイキュー!!』を読んでこう感じたんだけれど、それはなんでだろう?」
これだけです。
自分が受け取った感覚をどうにか明らかにしたくて言葉にしたくて始めたものです。

つまり、結論はあくまで私の感じ方です。その結論ありきで、自分がそう感じた理由を探って論理っぽく組み立てているだけです。他に良い言葉がなくて考察としていますが、考察擬きだと思います。

決して『ハイキュー!!』の正しい読み方、解釈ではありません。

岩ちゃんは結構クローズアップされたのに、なんでモブキャラっぽさが抜けないんだろう?

岩ちゃんがIHで及川さんの天才コンプに最後まで突っかかり続けたのはなんだったろう?

及川さんはどういう気持ちで負けるのかもしれないねって言ったんだろう?

ドンピシャのトスはふたりに何を残しただろう?

私が読みながら不思議に思って考え続けていたことをまとめておこうと思ったのがこのブログです。
これはあくまで私の阿吽像です。見てくださった方と重なるところもあるかもしれません。相容れないところもあるかもしれません。
でもこいつはこう読んだのか、と思って読んでいただければ幸いです。

なお、このブログに載せる阿吽考察については、2015年11月30日にpixivにて初稿公開(現在は非公開)、2016年1月24日初版の拙同人誌「阿吽考察」に掲載していたものに微修正を加えたものであることを申し添えます。

記事案内

阿吽考察

17巻146話で描かれた及川と岩泉によるドンピシャのトスを焦点にして、『ハイキュー!!』の中で描かれてきた及川像、岩泉像を自分なりにまとめてみたものです。

  • ドンピシャのトスは及川の中で何が起こったのか
  • なぜ岩泉はそのトスを決めきれなかったのか
  • そのトスが2人にもたらしたものは何だったのか

大体こんなことを考えてます。
全部で7記事ありますが、繋がっているので序文から順に読んでいただいた方がわかりやすいと思います。

本誌感想

145話除く132話~147話まで+αで青城vs伊達工を本誌リアルタイムで読んでいた時の感想です。春高予選に決着がついた今の時点で読んでもそれなりに読めるように内容の削除やテンションの修正はしていますが、概ね生の感想です。
148話については阿吽考察で大体言い尽くしているので敢えて掲載しませんでした。

その他

その他いくつかのテーマに沿ってまとめたものです。ここは多少増減があるかもしれません。

チームと個―60話再考

60話の岩泉の台詞「天才一年」が本誌掲載、単行本収録及びアニメ放映時に物議を醸した話については、「北川第一時代の及川・岩泉・影山について―60話考」でも触れて、及川が競技をする人間である以上、相手に影山が含まれるのは当然の事であり、岩泉には影山を排除する意図はなかったと述べてきた。
しかしこれを書いたのもアニメで60話にあたる話が放映された頃であり、今ならもっと私が感じたことを直截に言えるのではないかと最近になって思い立ち、再考することにした次第である。

以前は競技か部活かという視点を主軸に語ってきた。
その上で今回付け足したいのはチームと個という視点である。

チームと個は基本的には対義語であると言ってしまっていいだろう。

「個人技で勝負挑んで負ける自己中な奴が司令塔じゃチームが勝てないからな」

1巻3話 澤村大地

このようにしばしば『ハイキュー!!』に限らずとも個とチームとは対比され、個人主義はチームスポーツにおいて肯定されない。そして一般的には自分で好き勝手に振る舞うよりも、チームワークを発揮することの方がずっと難しいだけに、チームの意識は口を酸っぱくして言われる傾向もあるだろう。
しかし、こうしたことからひとつの履き違えが生じやすくなるのではないかと思う。
それは、チームワークのためであれば個を抑えることもやむを得ないということだ。
私自身も漠然とそう思って『ハイキュー!!』を読んでいたし、作中の登場人物たちもそんな履き違えをしているように思う。

たとえば影山は、「個」であるがゆえに孤立した過去から、彼なりに「個」を抑えて「チーム」に尽くそうとしていたという経緯が25巻224話で語られる。
しかしそれは否定され、影山は「個」の性質である「王様」を返還された。

あるいは京谷について考えてみると、彼は自分の思うように、つまり「個」として振る舞えないことに嫌気が差して「チーム」から離れていた。しかし16巻141話で言われたように、「自分がチームを向きチームも自分を向く」ような、両者が相乗効果をもたらす、そんな在り方もできることに気付いた彼は「個」を持ったまま「チーム」に戻るのだろう。

つまり、チームを重視するために個を軽視する必要はないのである。チームも個も、両方を同時に重視することには何も矛盾がないのだ。
そうは言っても、私自身も含め上記の影山や京谷のように、チームの重視と個の重視とは両立しない相反するものと捉えられがちで、そしてここで主題としたい及川もまたその一人だったのだと思われる。

IH予選が終わった頃、私は不思議に思っていたことがあった。

「…オイゴラ また〝トスは敵わない〟なんて言うんじゃねーだろな」
「飛雄に? 敵わないよ あんなピンポイント上げられないし! ギャッ怒んないで! 才能では敵わなくても皆が一番打ちやすいトスを上げられる自信はあるよ セッターとしては負けない」
「……」

6巻53話 岩泉一・及川徹

この流れにおいて、岩泉は及川の言い分を聞いてもなお不服そうな表情を浮かべていた。私にはそれがわからなかった。

話の掲載順としては後になるが、話の時系列としては前にあたる60話で、岩泉はこのような事を言う。

「てめえ一人で戦ってるつもりか 冗談じゃねーぞボゲェッ」
「1対1で牛島に勝てる奴なんか北一には居ねえよ!! けどバレーはコートに6人だべや!!」

7巻60話 岩泉一

この岩泉の「個」を否定して「チーム」を説いた言い分に照らし合わせれば、及川の「自分はチームメイトの力を引き出せるから、影山に個人技で負けたとしても、チームの中のセッターとしては負けない」という答えに岩泉は満足しても良いのではないかと思ったのだ。

しかし岩泉は口を固く引き結んだまま押し黙るだけでひとつも満足した様子はなかった。

この岩泉の不服の理由はその場で語られなかったために、どこで回収されるのだろうかと気にしながらIH予選を追っていたのだが、IH予選が終わっても理由らしい理由は見当たらなかった。
回収されるべきとは考えすぎだったのだろうかと長らく思っていたのだが、迎えた春高予選で、及川が岩泉にドンピシャのトスを上げた時、岩泉の不服の答えはこれだったのだと思った。
岩泉は及川がそんなトスを最初から無理と決めつけ、挑むことすらしないと決め込んでいたのが不服だったのだ。彼の登場当初に言った事をずっと及川に求めていたのである。

「『トスも負けてない』って言えよ クソ及川!」

2巻16話 岩泉一

私が60話と53話の岩泉の言い分との間に齟齬を感じていたのは、最初に言ったように「チームワークのためであれば個を抑えることもやむを得ない」と考えていたからだ。岩泉もまたそれを説いたのだと思い、それを受けての及川の判断は、チームのためとして正しいのだと思っていたからだ。
しかし実際は個を抑えることとチームワークをよくすることの間には因果関係がない。両者は両立する。よく読めば、岩泉は「個」にこだわる余りに「チーム」の意識が疎かになっていることに怒りを覚えているだけであって、「個」として競い合うこと自体は否定していない。
及川はおそらく自分も気がつかないままに、「チームのため」をもっともらしい理由にして、影山個人と競うことから目を背けていた。
岩泉はそのチームのためと言いながら個を軽視する及川の欺瞞に不服を覚えていたのだ。

以上を踏まえた上で60話を読んでみたい。

60話もまた、個とチームが主軸になった話とも言えると思う。
ただしこの時に起こっていたのは、個を重視しすぎるが故のチームの軽視だ。

天才一年と交代させられたことで頭に血が上っていたこと、牛島というどうしても勝てない壁が立ちはだかっていたことから、及川はおそらく「天才一年と交代させられてしまうような弱い自分では、牛島という怪物を擁する白鳥沢に勝てない」と考えていたのだろう。
これは、「個vs個」の結果がそのまま「チームvsチーム」の勝敗に直結する、言ってしまえば「個vsチーム」の意識に、及川はなってしまっていた。
チームにおいても「てめえ一人で戦ってるつもり」になっていたのである。

これはそもそもバレーボールがチームスポーツであることを失念しているということで、到底肯定されるべきではない。

そこで岩泉が60話でしたこととは、バレーボールとは「個vs個」の結果が勝敗を分けるものではないし、ましてや「個vsチーム」で戦うものでもない、あくまで「チームvsチーム」の結果が勝敗に繋がるスポーツなのだと及川に突き付けたことなのである。

そんな文脈で相手として挙げられた「天才一年」と「牛島」がなんなのかといえば、及川が「個vsチーム」の錯覚に陥るに至った原因となっている相手なのだと思う。
「天才一年と交代させられてしまうような弱い自分では、牛島という怪物を擁する白鳥沢に勝てない」と先ほど解釈したところだが、このとおりである。
岩泉は及川が気にしすぎている「相手」の天才一年も牛島もチームの勝敗自体には直接関係がないだろうと、そう言うために相手として彼らを列挙したに過ぎないのだ。
及川と岩泉の共通の敵を挙げて、「そんなやつらが相手であろうと俺たち6人でチームワークを発揮できれば負けない」などという、そんな文脈では全くないと私は思う。

及川はこの岩泉の言葉を受けて、バレーボールはチームスポーツであることを思い出す。
しかしその一方で、彼は背後から迫り来る同じポジションの天才の存在を、チームを盾に棚上げしてしまう。及川は「俺が俺が」となっていたことからも、あるいは影山に向けられた言葉の端々からも、影山の個人としての技術に及ばないことに本心から納得はしていなかっただろう。
しかし本心を覆い隠して、個としての戦いから目を背けてしまったのだ。
そして「いつか負けるのかもしれない」と己の未来を悲観した状態に陥ったが、17巻146話で登場した影の人物の言葉を受け、「天才には敵わない」と言うことを止め、それが及川にとって影山との「個vs個」の戦いであるドンピシャのトスに繋がったのである。

60話はひとつの答えであると同時に、別の問題の始まりでもあった。
及川にとって大きな転換点となったこの話は、「チーム」と「個」という視点を持って見ればこのような流れが読み取れるものであり、影山を排除したいというその後の北川第一に悪影響をもたらしてしまうような、そんな意識をもって発された言葉ではまったくなかったとやはり私は思うのである。

ドンピシャトスが決まらなかったのは―阿吽考察再考

私は『阿吽考察』「完成したトス、決まらなかったスパイク」の中で、岩泉がスパイクを決めきれなかった理由として、展開上の都合を挙げた。
烏野がリベンジを果たす以上、あのタイミングで青城が会心の1点を挙げて、流れを青城に傾けてはいけないという理由だ。
今も理由のひとつにそれがあるのではないかとは思っているが、実を言えばこの表現はある意味展開の犠牲とも言ってしまえるような気がして抵抗があった。
私はあの場面を展開の犠牲とは思っていなかったし、思いたくもなかった。

一方でもうひとつ、この考察を書く前からぼんやりと考えていた岩泉が決められなかった理由があった。
しかしかなりの願望が入り交じっているので、表には出さなかったのだが、やはり展開の犠牲と呼ばれかねない理由のみを公開しておくことに不服を感じるようになったので、ここに残しておこうと思う。

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少年期の終わりに―番外編考

じいさんになるくらいまで幸せになれない

 岩泉は「お前は多分じいさんになるくらいまで幸せになれない」と言った。
 及川はそれを「呪い」と表現したが、私は岩泉がそれを言おうと言うまいと、結局及川は岩泉が言った通りの人生を歩むのではないかと思う。

 「幸せになれない」とは、その後の台詞も考慮すれば、バレーに関して一生満足できない事なのだと思う。勝利という栄光を獲得したところで、及川はその誉れを得る事を究極の目的としているわけではない。勝利したところで、もっとこうすれば良かったと改善点が見えてしまえば、満足する事なく次を考えてしまう。その「次」を実現するためにまた何度も壁にぶつかりもするだろう。それは辛く苦しい道となる。それでも及川はきっと挑み続けてしまう。岩泉はその事について「幸せになれない」と表現したのだと思う。及川はバレーを追いかける限り、幸せにはなれないのである。
 その一方で岩泉は幸せになれない事に時限を付した。「じいさんになるくらいまで」というのは、アバウトだが適当に発した言葉ではないと思う。「一生」でもなければ、「じいさんになるまで」でもない。私はこの言葉については「及川がなんらかの事情でバレーを追いかけられなくなるまで」と解している。及川はバレーに関して満足する事が無いために、ずっとバレーを追いかけ続けていくものと思われるが、それでも、身体的な問題等でバレーに関われなくなる瞬間はいつかやってくる。もちろん追いかけられなくなる事もまた苦痛だろう。その瞬間もおそらく満足はできていないのだろうから、満足できないままに退く事は不本意に違いない。しかしそれでも、じいさんになるくらいまでの長い時間を、バレーが追いかけられなくなるまで突き詰めたのであれば、その人生を回顧した時にその道を幸せでなかったとは言えないと思う。バレーに限界まで己を費やせたのならば、それは及川にとって幸福な事であるはずだ。

 岩泉が及川に向けて言う事は、基本的に及川も既にわかっているはずという事は、「岩泉一の役割」中でも触れたところだ。極論、岩泉がいなくとも、遠回りをするかもしれないが、及川は同じ答えにたどり着くのではないかと思う。だから満足できない事も、一生バレーを追いかける事も、既に決まっているような事であって、及川徹が及川徹である以上、岩泉がどう言おうとそうなる事は必然なのである。だからこの言葉は呪いというよりは予言だったのだと思う。そしてこの予言は既定路線であるために、2人にとってはさしたる意味を持たないと考えられ、岩泉も淡々と述べて、及川も緩くツッコミしながら聞いている。これはあくまで、次に続く台詞のための布石なのだと思う。

迷わず進めよ

 ところで、岩泉が番外編で及川に伝えた台詞とよく似たものがある。17巻146話の影の人物の台詞である。少し並べてみよう。

「自分より優れた何かを持っている人間は生まれた時点で自分とは違いそれを覆す事などどんな努力・工夫・仲間を持ってしても不可能だと嘆くのは全ての正しい努力を尽くしてからで遅くない ただ〝自分の力はこんなものではない〟と信じて只管まっすぐに道を進んで行く事は〝自分は天才ではないから〟と嘆き諦める事より辛く苦しい道であるかもしれないけれど」

17巻146話 影の人物

「お前は多分じいさんになるくらいまで幸せになれない たとえどんな大会で勝っても完璧に満足なんてできずに 一生バレーを追っかけて生きていく めんどくせえ奴だからな でも迷わず進めよ」

17巻番外編 岩泉一

 両者ともに、及川に対して、進み続ける事は辛く苦しい事かもしれないが、それでも進んでみろと言っている。ただしこのふたつの台詞には大きな違いがあると思う。
 影の人物はおそらく及川を深く知る人物ではないだろう。だから彼の言葉はごく普遍的なものであり、一般論として、諦めの早い才覚ある若者を諭そうとしているように見える。
 一方の岩泉の台詞は、もっぱら及川個人について言及したものである。普遍的でも一般論でもない。及川の性質をよく知る岩泉がただの主観から及川の背を押しているのである。

 理解するというプロセスには色々あると思うが、理論から入って理性で理解しても、経験や主観と結びつかなければ身の入った理解には至らなかったり、あるいは経験から理解していても、理論として知らなければ曖昧で輪郭のぼやけた理解になったりする。
 影の人物の言葉は理論と言って良いだろう。彼が誰なのかは明かされていないが、及川がバレーにおける進路を相談するような相手であり、バレーの道に関して知見の広い人物なのだろうと推察できる。彼は及川個人の事には詳しくないかもしれないが、同じような選手を多く見てきているのだろう。多くのデータに裏付けされる言葉は、ひとつの真理として耳を傾ける価値がある。だから及川もこの言葉で意識の持ち方を変えてみようと思ったのだろう。しかし、この時点ではまだ「かもしれない」である。

「…才能開花のチャンスを掴むのは今日かもしれない 若しくは明日か明後日か来年か 30歳になってからかも?」

17巻146話 及川徹

 私はこの理論を、経験や主観と結びつけたものが、岩泉が意図を汲みとったドンピシャのトスや、この岩泉の番外編での台詞だったのだと思う。影の人物は、及川にとってその道がどれだけ苦しいものであるのか、辛いものであるのか、それを実感として知りはしない。ある意味無配慮な一般論だ。しかし岩泉はこれまでの道のりも、及川の性質もよく知っている。そしてこれからも及川はずっと満足する事のないまま、それでもバレーを追いかけ続けるのだろうと予言した。その彼が、影の人物の理論と同じく進めと言っているのである。経験や主観がどんな険しい道が待っていようと及川ならば進めると確信しているのである。
 その事は、及川がこれから辛く苦しい道を辿って行くに際して、大きな支えになっていくのではないだろうか。

ちょうスゲェセッター

「お前は俺の自慢の相棒で ちょうスゲェセッターだ」

17巻番外編 岩泉一

 この台詞について、大きく分けて3つの事に言及したい。

 第一に、とても岩泉らしいと思った事だ。

 この台詞は手前の「でも迷わず進めよ」、引いてはその前段の台詞と繋がっていると考える。理由としては、「迷わず進めよ」のコマ割や台詞の配置が、次ページへの引きと取れるからである。
 つまり、お前は俺の自慢の相棒でちょうスゲェセッター「なのだから」迷わず進め、という意図を暗に含んでいるように取れる。
 おそらく及川は自分の決意がもたらす、これから先に待ち受ける苦難を理解しているだろう。想像するに難くない事であるし、影の人物からも辛く苦しい道と言われている。彼の決意は固いものだろうが、それでも進んでいけるだろうかという疑念が全くないとは言い切れない。なまじこれまでに苦しんできた及川である。
 そこに岩泉は「迷わず進め」とぶつける。それも「俺の自慢の相棒でちょうスゲェセッター」という根拠になるのかも怪しい、どこまでも主観的な評価を持ち出して、だ。
 しかし、この主観まみれの根拠は、岩泉がここまで及川を見てきても揺らがなかった評価でもある。そう簡単に覆るものではない、とても強固なものだろう。

 私は岩泉というキャラクターを「自分がどう思うか」という主観で動くキャラクターだと認識している。一般論や客観的な根拠などを持ち出さずに、自分がこう思うのだから迷わず進めと背を押すのは、非常に岩泉らしいと思った。

 第二に、これは岩泉にしか言えない台詞だという事である。

 岩泉は作品上扱いの大きい、重要と思われる台詞をいくつか持っている。「バレーはコートに6人」や「目の前の相手さえ見えてない奴がその先に居る相手を倒せるもんかよ」、「相手の完璧な一発を拾うレシーブの快感を知って良かった」などは、描写のされ方も踏まえれば作品内での通念と言っても良いような、重要な台詞だと思う。
 しかしこれらの台詞は、特に岩泉だからこそ言わせる事ができたという類の言葉ではないように思う。もちろんこれらの台詞を言うには、たとえばレシーブのレベルが一定以上など、ある程度の条件は付されると思うが、岩泉固有のエピソードに基づいているというわけではない。岩泉が持つ重要な台詞は、その条件を満たすキャラクターなら誰でも言えるようなものだ。岩泉は彼自身の物語を持たないという性質から、重要な台詞ほど没個性的になる傾向が強いと思っていた。
 しかし、番外編で及川に向けた、ページを半分割いたこの台詞は、岩泉にしか言えない台詞だった。他のキャラクターはもちろん、神の視点にも、読者にも代弁できるものではなかった。及川と長年共にバレーをしてきた岩泉だからこそ、贈る事の出来る言葉だったのだ。

 第三に、「ちょうスゲェセッター」が持つ力についてだ。

 これは多分に私の想像も入ってくるところになるが、この言葉はとても子供っぽいと思う。頭に「ちょう」を付ければ、なんでもハイレベルになってしまう、そんな小学生の頃の至極単純な、しかし絶対的な力を持つルールを彷彿とさせる。
 子供の世界はとかく絶対性に溢れる。子供向けのアニメや特撮のヒーローは最後には絶対勝ち、プロとついたら超人のようになんでもできる気がしていた。そういう無心さや絶対性をこの言葉は持っているように思う。
 無敵のセッター像がそこにはある。
 子供時代を一緒に過ごしているならば、そのニュアンスはなおさら伝わるものではないだろうか。
 また、「ちょうスゲェセッター」とはどんなセッターなのか、何ひとつ具体性がない。及川はこれまでにチームの力を100%引き出せるだとか、すぐにチームに溶け込めるだとかそう言った評価を受けてきたが、そんな及川の長所にも何にも触れずに、ただ「ちょうスゲェセッター」とだけ言っている。
 その具体性の欠如は、一見適当なようにも見えるが、及川がどんなセッターであるべきかという事を規定していないという事だとも思う。岩泉は及川自身も見ていたような彼の限界を見てはいなかった。

 及川は無敵な、どんなセッターにでもなれるのである。

 「迷わず進め」という言葉の効力については前段で述べてきたところであるが、その根拠にこの岩泉らしい言葉があるからこそ、及川は迷わず進めるはずだという強い力を持つものになっているのだと思う。

総括

 番外編を青葉城西が主役校であった場合の物語と考えた時に、やはり主人公は及川1人なのだと感じた。阿吽の呼吸と称され、明確にコンビと位置付けられているとは言え、岩泉を及川と同格に据えたW主人公の物語にはならなかった。2人は相棒だがスポットの当たり方には偏りがある。番外編は及川のこれまでを振り返り、及川のこれからを示す、そんな話だったと思う。
 阿吽考察でも述べていたところではあるが、『ハイキュー!!』という作品を、及川の物語に焦点を当てて読むと、及川が才能という得体の知れないものについて葛藤し、それを乗り越えていく様を描いたものだと言える。
 及川が才能という渦に足を取られて、そこから抜け出そうと藻掻いているのだとする。
 作品内時系列を辿ってみれば、北川第一時代は足を滑らせて飲み込まれかけ、IHにおいてもまだ渦の激しさに足を取られるところがあったが、及川が飲みこまれる前に岩泉が要所において踏みとどまらせてきた。そして影の人物の言葉を聞き、及川なりに噛み砕いて、ほとんど葛藤の渦から抜け出していたのが春高だろう。
 IHの及川と春高の及川とで読み味が違うと感じた人もいるのではないかと思うが、私はそのあたりに違いがあると考える。
 及川はその葛藤からほとんど抜け出していたからこそ、春高では岩泉の文句も助け舟も必要なかったのだろう。春高ではIHまでと一転して、岩泉はほとんど及川の内面に関与していない。そうして最後に岩泉にドンピシャのトスを上げた事で、及川は才能の渦から抜け出したのである。
 岩泉はこういった及川の物語を補助するために描写が盛られていったキャラクターだと思う。そのために、及川がその葛藤から抜け出して彼の助けを不要とするならば、言い方は悪いが岩泉は必要がなくなるのである。それはあたかも自転車の補助輪のようなものだ。役割が終われば誇らしく外される。番外編は、その補助輪が外れた及川に対して、岩泉が背を押したような、そんな印象を受けた。

 このように、番外編でもやはり岩泉は主人公の1人にはならず、2人の間の不均衡は埋まらなかったと感じた。口では「チームが変わっても」「戦う時は倒す」とこれからも及川と同じ道を歩き続けるような事を言っても、外された補助輪のような、厳然たる別れを感じさせるものがあった。

 しかし、と思う。

 岩泉は、『ハイキュー!!』という物語の中では、及川の補助役としての役割に重きが置かれて描写されてきたキャラクターだろう。
 岩泉と同等、あるいはそれ以下の描写量であっても、他のキャラクターの多くは排球のタイトルに沿うように、バレーに関する描写に重きが置かれていると思う。
 一方で岩泉はバレーに関する描写がほとんどされていないと言って良い。そう考えると、私が感じた「別れ」とは、及川と岩泉のバレーの道の決別ではなく、岩泉が担っていた役割との別れに過ぎないのかもしれない。バレーに関して言うならば、やはり「戦う時は倒す」の言葉の通りに、これからも同じ道を歩き続けるのかもしれない。
 岩泉が気休めや、あるいは生半可な覚悟で、そういった事を及川に言うとは到底思えないと感じている事もある。

 番外編は及川が話の主軸にいる。しかし、それと同時に、今まで本編の中で描かれてきたどのシーンよりも及川と岩泉の2人という単位に対してスポットが当てられた話だったとも思う。

 その理由のひとつは番外編で数コマ描かれた回想が、及川と岩泉の2人のものだった事である。これまでに小学生時代や北川第一時代の過去が描写される事はあったが、及川の過去に岩泉が登場するような形であって、及川と岩泉2人の過去と言うには及川が中心に据えられていた。
 しかし番外編では、2人でバレーをしてきて、互いのプレーへの賞賛代わりに数限りなく拳を打ち交わしてきた様子が描かれている。それは本編を読んでいれば種々の描写から汲み取れる事ではあるが、ここにきて及川と岩泉とに均等にスポットライトが当てられ、2人の間にあったものがしっかりと示されたのである。

 また、もうひとつの理由として、最後に現在の2人が拳を重ねるコマは見せゴマと言って良いと考えるが、こうした見せゴマで及川と岩泉とが同格に描かれる事はこれまでにあまりなかったように思う。
 13巻108話「集結」では全体的に2人という単位で扱われているように感じるが、思い当たる描写もその程度だ。そのために、この番外編の及川と岩泉が描かれる最後のコマで、2人のバランスが均衡を保っているという事は、特筆すべき事だと思う。

 番外編の話の主軸は及川に置かれていたわけだが、そこに対等に関わってきた、あるいはこれからも対等に関わっていくかもしれない岩泉の存在も、またしっかりと描かれていたように感じるのである。