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及川徹と岩泉一に関する一考察

漫画『ハイキュー!!』の登場人物である青葉城西高校の及川徹と岩泉一に関して考えたことや思ったことをまとめておくブログです。

はじめに

このブログは考察と銘打っていますが、はじめに考察の定義について考えさせてください。

ぐぐってみると考察とは「物事を明らかにするためよく考え調べること」とあります。物事を明らかにするとはどういう意味かというと、色々あると思います。正しさを証明することかもしれません。間違いを指摘することかもしれません。目的によって色々あると思います。

私がこれらの考察をした目的はとても単純です。
「私は『ハイキュー!!』を読んでこう感じたんだけれど、それはなんでだろう?」
これだけです。
自分が受け取った感覚をどうにか明らかにしたくて言葉にしたくて始めたものです。

つまり、結論はあくまで私の感じ方です。その結論ありきで、自分がそう感じた理由を探って論理っぽく組み立てているだけです。他に良い言葉がなくて考察としていますが、考察擬きだと思います。

決して『ハイキュー!!』の正しい読み方、解釈ではありません。

岩ちゃんは結構クローズアップされたのに、なんでモブキャラっぽさが抜けないんだろう?

岩ちゃんがIHで及川さんの天才コンプに最後まで突っかかり続けたのはなんだったろう?

及川さんはどういう気持ちで負けるのかもしれないねって言ったんだろう?

ドンピシャのトスはふたりに何を残しただろう?

私が読みながら不思議に思って考え続けていたことをまとめておこうと思ったのがこのブログです。
これはあくまで私の阿吽像です。見てくださった方と重なるところもあるかもしれません。相容れないところもあるかもしれません。
でもこいつはこう読んだのか、と思って読んでいただければ幸いです。

なお、このブログに載せる阿吽考察については、2015年11月30日にpixivにて初稿公開(現在は非公開)、2016年1月24日初版の拙同人誌「阿吽考察」に掲載していたものに微修正を加えたものであることを申し添えます。

記事案内

阿吽考察

17巻146話で描かれた及川と岩泉によるドンピシャのトスを焦点にして、『ハイキュー!!』の中で描かれてきた及川像、岩泉像を自分なりにまとめてみたものです。

  • ドンピシャのトスは及川の中で何が起こったのか
  • なぜ岩泉はそのトスを決めきれなかったのか
  • そのトスが2人にもたらしたものは何だったのか

大体こんなことを考えてます。
全部で7記事ありますが、繋がっているので序文から順に読んでいただいた方がわかりやすいと思います。

本誌感想

145話除く132話~147話まで+αで青城vs伊達工を本誌リアルタイムで読んでいた時の感想です。春高予選に決着がついた今の時点で読んでもそれなりに読めるように内容の削除やテンションの修正はしていますが、概ね生の感想です。
148話については阿吽考察で大体言い尽くしているので敢えて掲載しませんでした。

その他

その他いくつかのテーマに沿ってまとめたものです。ここは多少増減があるかもしれません。

少年期の終わりに―番外編考

じいさんになるくらいまで幸せになれない

 岩泉は「お前は多分じいさんになるくらいまで幸せになれない」と言った。
 及川はそれを「呪い」と表現したが、私は岩泉がそれを言おうと言うまいと、結局及川は岩泉が言った通りの人生を歩むのではないかと思う。

 「幸せになれない」とは、その後の台詞も考慮すれば、バレーに関して一生満足できない事なのだと思う。勝利という栄光を獲得したところで、及川はその誉れを得る事を究極の目的としているわけではない。勝利したところで、もっとこうすれば良かったと改善点が見えてしまえば、満足する事なく次を考えてしまう。その「次」を実現するためにまた何度も壁にぶつかりもするだろう。それは辛く苦しい道となる。それでも及川はきっと挑み続けてしまう。岩泉はその事について「幸せになれない」と表現したのだと思う。及川はバレーを追いかける限り、幸せにはなれないのである。
 その一方で岩泉は幸せになれない事に時限を付した。「じいさんになるくらいまで」というのは、アバウトだが適当に発した言葉ではないと思う。「一生」でもなければ、「じいさんになるまで」でもない。私はこの言葉については「及川がなんらかの事情でバレーを追いかけられなくなるまで」と解している。及川はバレーに関して満足する事が無いために、ずっとバレーを追いかけ続けていくものと思われるが、それでも、身体的な問題等でバレーに関われなくなる瞬間はいつかやってくる。もちろん追いかけられなくなる事もまた苦痛だろう。その瞬間もおそらく満足はできていないのだろうから、満足できないままに退く事は不本意に違いない。しかしそれでも、じいさんになるくらいまでの長い時間を、バレーが追いかけられなくなるまで突き詰めたのであれば、その人生を回顧した時にその道を幸せでなかったとは言えないと思う。バレーに限界まで己を費やせたのならば、それは及川にとって幸福な事であるはずだ。

 岩泉が及川に向けて言う事は、基本的に及川も既にわかっているはずという事は、「岩泉一の役割」中でも触れたところだ。極論、岩泉がいなくとも、遠回りをするかもしれないが、及川は同じ答えにたどり着くのではないかと思う。だから満足できない事も、一生バレーを追いかける事も、既に決まっているような事であって、及川徹が及川徹である以上、岩泉がどう言おうとそうなる事は必然なのである。だからこの言葉は呪いというよりは予言だったのだと思う。そしてこの予言は既定路線であるために、2人にとってはさしたる意味を持たないと考えられ、岩泉も淡々と述べて、及川も緩くツッコミしながら聞いている。これはあくまで、次に続く台詞のための布石なのだと思う。

迷わず進めよ

 ところで、岩泉が番外編で及川に伝えた台詞とよく似たものがある。17巻146話の影の人物の台詞である。少し並べてみよう。

「自分より優れた何かを持っている人間は生まれた時点で自分とは違いそれを覆す事などどんな努力・工夫・仲間を持ってしても不可能だと嘆くのは全ての正しい努力を尽くしてからで遅くない ただ〝自分の力はこんなものではない〟と信じて只管まっすぐに道を進んで行く事は〝自分は天才ではないから〟と嘆き諦める事より辛く苦しい道であるかもしれないけれど」

17巻146話 影の人物

「お前は多分じいさんになるくらいまで幸せになれない たとえどんな大会で勝っても完璧に満足なんてできずに 一生バレーを追っかけて生きていく めんどくせえ奴だからな でも迷わず進めよ」

17巻番外編 岩泉一

 両者ともに、及川に対して、進み続ける事は辛く苦しい事かもしれないが、それでも進んでみろと言っている。ただしこのふたつの台詞には大きな違いがあると思う。
 影の人物はおそらく及川を深く知る人物ではないだろう。だから彼の言葉はごく普遍的なものであり、一般論として、諦めの早い才覚ある若者を諭そうとしているように見える。
 一方の岩泉の台詞は、もっぱら及川個人について言及したものである。普遍的でも一般論でもない。及川の性質をよく知る岩泉がただの主観から及川の背を押しているのである。

 理解するというプロセスには色々あると思うが、理論から入って理性で理解しても、経験や主観と結びつかなければ身の入った理解には至らなかったり、あるいは経験から理解していても、理論として知らなければ曖昧で輪郭のぼやけた理解になったりする。
 影の人物の言葉は理論と言って良いだろう。彼が誰なのかは明かされていないが、及川がバレーにおける進路を相談するような相手であり、バレーの道に関して知見の広い人物なのだろうと推察できる。彼は及川個人の事には詳しくないかもしれないが、同じような選手を多く見てきているのだろう。多くのデータに裏付けされる言葉は、ひとつの真理として耳を傾ける価値がある。だから及川もこの言葉で意識の持ち方を変えてみようと思ったのだろう。しかし、この時点ではまだ「かもしれない」である。

「…才能開花のチャンスを掴むのは今日かもしれない 若しくは明日か明後日か来年か 30歳になってからかも?」

17巻146話 及川徹

 私はこの理論を、経験や主観と結びつけたものが、岩泉が意図を汲みとったドンピシャのトスや、この岩泉の番外編での台詞だったのだと思う。影の人物は、及川にとってその道がどれだけ苦しいものであるのか、辛いものであるのか、それを実感として知りはしない。ある意味無配慮な一般論だ。しかし岩泉はこれまでの道のりも、及川の性質もよく知っている。そしてこれからも及川はずっと満足する事のないまま、それでもバレーを追いかけ続けるのだろうと予言した。その彼が、影の人物の理論と同じく進めと言っているのである。経験や主観がどんな険しい道が待っていようと及川ならば進めると確信しているのである。
 その事は、及川がこれから辛く苦しい道を辿って行くに際して、大きな支えになっていくのではないだろうか。

ちょうスゲェセッター

「お前は俺の自慢の相棒で ちょうスゲェセッターだ」

17巻番外編 岩泉一

 この台詞について、大きく分けて3つの事に言及したい。

 第一に、とても岩泉らしいと思った事だ。

 この台詞は手前の「でも迷わず進めよ」、引いてはその前段の台詞と繋がっていると考える。理由としては、「迷わず進めよ」のコマ割や台詞の配置が、次ページへの引きと取れるからである。
 つまり、お前は俺の自慢の相棒でちょうスゲェセッター「なのだから」迷わず進め、という意図を暗に含んでいるように取れる。
 おそらく及川は自分の決意がもたらす、これから先に待ち受ける苦難を理解しているだろう。想像するに難くない事であるし、影の人物からも辛く苦しい道と言われている。彼の決意は固いものだろうが、それでも進んでいけるだろうかという疑念が全くないとは言い切れない。なまじこれまでに苦しんできた及川である。
 そこに岩泉は「迷わず進め」とぶつける。それも「俺の自慢の相棒でちょうスゲェセッター」という根拠になるのかも怪しい、どこまでも主観的な評価を持ち出して、だ。
 しかし、この主観まみれの根拠は、岩泉がここまで及川を見てきても揺らがなかった評価でもある。そう簡単に覆るものではない、とても強固なものだろう。

 私は岩泉というキャラクターを「自分がどう思うか」という主観で動くキャラクターだと認識している。一般論や客観的な根拠などを持ち出さずに、自分がこう思うのだから迷わず進めと背を押すのは、非常に岩泉らしいと思った。

 第二に、これは岩泉にしか言えない台詞だという事である。

 岩泉は作品上扱いの大きい、重要と思われる台詞をいくつか持っている。「バレーはコートに6人」や「目の前の相手さえ見えてない奴がその先に居る相手を倒せるもんかよ」、「相手の完璧な一発を拾うレシーブの快感を知って良かった」などは、描写のされ方も踏まえれば作品内での通念と言っても良いような、重要な台詞だと思う。
 しかしこれらの台詞は、特に岩泉だからこそ言わせる事ができたという類の言葉ではないように思う。もちろんこれらの台詞を言うには、たとえばレシーブのレベルが一定以上など、ある程度の条件は付されると思うが、岩泉固有のエピソードに基づいているというわけではない。岩泉が持つ重要な台詞は、その条件を満たすキャラクターなら誰でも言えるようなものだ。岩泉は彼自身の物語を持たないという性質から、重要な台詞ほど没個性的になる傾向が強いと思っていた。
 しかし、番外編で及川に向けた、ページを半分割いたこの台詞は、岩泉にしか言えない台詞だった。他のキャラクターはもちろん、神の視点にも、読者にも代弁できるものではなかった。及川と長年共にバレーをしてきた岩泉だからこそ、贈る事の出来る言葉だったのだ。

 第三に、「ちょうスゲェセッター」が持つ力についてだ。

 これは多分に私の想像も入ってくるところになるが、この言葉はとても子供っぽいと思う。頭に「ちょう」を付ければ、なんでもハイレベルになってしまう、そんな小学生の頃の至極単純な、しかし絶対的な力を持つルールを彷彿とさせる。
 子供の世界はとかく絶対性に溢れる。子供向けのアニメや特撮のヒーローは最後には絶対勝ち、プロとついたら超人のようになんでもできる気がしていた。そういう無心さや絶対性をこの言葉は持っているように思う。
 無敵のセッター像がそこにはある。
 子供時代を一緒に過ごしているならば、そのニュアンスはなおさら伝わるものではないだろうか。
 また、「ちょうスゲェセッター」とはどんなセッターなのか、何ひとつ具体性がない。及川はこれまでにチームの力を100%引き出せるだとか、すぐにチームに溶け込めるだとかそう言った評価を受けてきたが、そんな及川の長所にも何にも触れずに、ただ「ちょうスゲェセッター」とだけ言っている。
 その具体性の欠如は、一見適当なようにも見えるが、及川がどんなセッターであるべきかという事を規定していないという事だとも思う。岩泉は及川自身も見ていたような彼の限界を見てはいなかった。

 及川は無敵な、どんなセッターにでもなれるのである。

 「迷わず進め」という言葉の効力については前段で述べてきたところであるが、その根拠にこの岩泉らしい言葉があるからこそ、及川は迷わず進めるはずだという強い力を持つものになっているのだと思う。

総括

 番外編を青葉城西が主役校であった場合の物語と考えた時に、やはり主人公は及川1人なのだと感じた。阿吽の呼吸と称され、明確にコンビと位置付けられているとは言え、岩泉を及川と同格に据えたW主人公の物語にはならなかった。2人は相棒だがスポットの当たり方には偏りがある。番外編は及川のこれまでを振り返り、及川のこれからを示す、そんな話だったと思う。
 阿吽考察でも述べていたところではあるが、『ハイキュー!!』という作品を、及川の物語に焦点を当てて読むと、及川が才能という得体の知れないものについて葛藤し、それを乗り越えていく様を描いたものだと言える。
 及川が才能という渦に足を取られて、そこから抜け出そうと藻掻いているのだとする。
 作品内時系列を辿ってみれば、北川第一時代は足を滑らせて飲み込まれかけ、IHにおいてもまだ渦の激しさに足を取られるところがあったが、及川が飲みこまれる前に岩泉が要所において踏みとどまらせてきた。そして影の人物の言葉を聞き、及川なりに噛み砕いて、ほとんど葛藤の渦から抜け出していたのが春高だろう。
 IHの及川と春高の及川とで読み味が違うと感じた人もいるのではないかと思うが、私はそのあたりに違いがあると考える。
 及川はその葛藤からほとんど抜け出していたからこそ、春高では岩泉の文句も助け舟も必要なかったのだろう。春高ではIHまでと一転して、岩泉はほとんど及川の内面に関与していない。そうして最後に岩泉にドンピシャのトスを上げた事で、及川は才能の渦から抜け出したのである。
 岩泉はこういった及川の物語を補助するために描写が盛られていったキャラクターだと思う。そのために、及川がその葛藤から抜け出して彼の助けを不要とするならば、言い方は悪いが岩泉は必要がなくなるのである。それはあたかも自転車の補助輪のようなものだ。役割が終われば誇らしく外される。番外編は、その補助輪が外れた及川に対して、岩泉が背を押したような、そんな印象を受けた。

 このように、番外編でもやはり岩泉は主人公の1人にはならず、2人の間の不均衡は埋まらなかったと感じた。口では「チームが変わっても」「戦う時は倒す」とこれからも及川と同じ道を歩き続けるような事を言っても、外された補助輪のような、厳然たる別れを感じさせるものがあった。

 しかし、と思う。

 岩泉は、『ハイキュー!!』という物語の中では、及川の補助役としての役割に重きが置かれて描写されてきたキャラクターだろう。
 岩泉と同等、あるいはそれ以下の描写量であっても、他のキャラクターの多くは排球のタイトルに沿うように、バレーに関する描写に重きが置かれていると思う。
 一方で岩泉はバレーに関する描写がほとんどされていないと言って良い。そう考えると、私が感じた「別れ」とは、及川と岩泉のバレーの道の決別ではなく、岩泉が担っていた役割との別れに過ぎないのかもしれない。バレーに関して言うならば、やはり「戦う時は倒す」の言葉の通りに、これからも同じ道を歩き続けるのかもしれない。
 岩泉が気休めや、あるいは生半可な覚悟で、そういった事を及川に言うとは到底思えないと感じている事もある。

 番外編は及川が話の主軸にいる。しかし、それと同時に、今まで本編の中で描かれてきたどのシーンよりも及川と岩泉の2人という単位に対してスポットが当てられた話だったとも思う。

 その理由のひとつは番外編で数コマ描かれた回想が、及川と岩泉の2人のものだった事である。これまでに小学生時代や北川第一時代の過去が描写される事はあったが、及川の過去に岩泉が登場するような形であって、及川と岩泉2人の過去と言うには及川が中心に据えられていた。
 しかし番外編では、2人でバレーをしてきて、互いのプレーへの賞賛代わりに数限りなく拳を打ち交わしてきた様子が描かれている。それは本編を読んでいれば種々の描写から汲み取れる事ではあるが、ここにきて及川と岩泉とに均等にスポットライトが当てられ、2人の間にあったものがしっかりと示されたのである。

 また、もうひとつの理由として、最後に現在の2人が拳を重ねるコマは見せゴマと言って良いと考えるが、こうした見せゴマで及川と岩泉とが同格に描かれる事はこれまでにあまりなかったように思う。
 13巻108話「集結」では全体的に2人という単位で扱われているように感じるが、思い当たる描写もその程度だ。そのために、この番外編の及川と岩泉が描かれる最後のコマで、2人のバランスが均衡を保っているという事は、特筆すべき事だと思う。

 番外編の話の主軸は及川に置かれていたわけだが、そこに対等に関わってきた、あるいはこれからも対等に関わっていくかもしれない岩泉の存在も、またしっかりと描かれていたように感じるのである。

北川第一時代の及川・岩泉・影山について―60話考

 7巻に収録されている60話「進化」は、『ハイキュー!!』同人界で60話ショックという言葉が生まれるほどに衝撃を与えた話だった。それと同時に及川と岩泉の影山に対する姿勢について物議を醸した話でもある。及川が60話で影山に対して取った行動は、しばしば菅原と比較して批判の対象ともなった。同じチームの向上心ある後輩を敵視して遠ざける事は先輩として狭量であり、また、それを正す事もしない岩泉の両者の姿勢が、北川第一というチームや影山に悪影響を与えていたのではないかと言う人もいた。これについて、まずは及川がそのような態度を取った理由について考え、そして本当にそれが悪影響となったのかどうか、それを考えたい。
可能な限り加筆修正は行っているが、この原稿を最初に書いたのは春高開始前となるため、情報に手落ちがある可能性を先に陳謝する。

及川徹の姿勢

 及川は影山の存在に追い詰められ、自分の脅威になる存在とみなして、サーブの教授を請われても中学の間に教える事はなかった。

「…俺…サーブとブロックはあの人見て覚えました」

2巻13話 影山飛雄

 対する菅原は、ひとつでも勝ちが取れて、烏野が先に進めるのであれば、影山を起用するべきだと自ら烏養に進言した。

「―俺ら3年には"来年"が無いです ―だから ひとつでも多く勝ちたいです 次へ進む切符が欲しいです それを取ることができるのが俺より影山なら 迷わず影山を選ぶべきだと思います」

4巻26話 菅原孝支

 また、影山に対する態度も、及川は今に至るまで剣呑な態度であり、菅原は影山を認めたうえで、彼に欠けているチームへの信頼を懇切に諭すような態度である。この差について、もちろん元々の性格に因る部分も大きいとは思うが、「部活と競技」という視点、及び「アイデンティティの確立」という視点でこの2人を比較してみたいと思う。

 まずはバレーに臨む姿勢として「部活」という側面が大きいのか、「競技」という側面が大きいのかという視点である。

「スポーツに限らず、どんなことでもそうだと思いますが、「部活動」としてやってきたことを、高校限りで終える人も沢山いると思います。」

ダ・ヴィンチ2014年4月号
古舘春一1万2000字インタビュー

 作者に対するインタビューで、「高校」が特別である理由についてこのように述べられていた。また、「月刊バレーボール」2014年3月号の、直前の春高優勝校である星城高校特集において、選手たちのプロフィール項目のひとつに将来の夢が載せられていたが、全国優勝校においてもVリーガーになりたいと掲げている選手は多くはなかった。

 部活動としてやりきって終えるのか、その道を極めるために続けていくのか。『ハイキュー!!』ではおそらく、前者が圧倒的多数のように思う。クローズアップされるようなキャラクターについては後者も多いように思うが、全員が全員そうというわけでもない。
 彼らが部員としてあるのか、バレー選手としてあるのか、作中では明言されているわけではないが、その在り方の描写が各所に滲むのは『ハイキュー!!』の面白さのひとつであると思う。

「基本的には優しい主将に甘えて それまで〝それなりに楽しくやってた部活〟が途端に〝勝つ為の部活〟になって ぬるま湯に浸ってたみたいな俺達はびっくりして逃げ出した」

4巻27話 縁下力

「かつて全国レベルだったそのチームに勝てちゃったりとかして!?」
「万年一回戦負けの俺達が!!」

5巻35話 芳賀良治・玉川弘樹

「中学までは皆でわいわいやるのがたのしーって漠然と思ってました それが俺にとってのバレーでした」

8巻70話 山口忠

「おれ オリンピックで金メダル獲るまで何回も後悔すると思います!」

8巻71話 日向翔陽

 部活をしているのか、競技をしているのか。それは技術の巧拙やチームの強弱には関係ない。部活をしているキャラクターは今自分が所属しているチームで自分はどうやっていくのか、チームをどうしていくべきかという視点が強いだろう。競技をしているキャラクターは自分のバレーについて思うところ、自負するところがあるだろう。とはいえ、部活か競技かというものは切って切り離せるものではないし、高校バレーの頂点を目指すという話の流れにおいては、両者の本気にはなんら差がないように描かれていると思う。
 ただ彼らの将来を考えた時にはおそらく影響してくる事であり、細かいところで反応の差となって表れていると思う。その顕著な例が、及川と菅原との「後輩に天才セッターが表れた時の正セッターの反応」であると考える。

私は及川と菅原について、及川は競技寄りであり、菅原は部活寄りだと考えている。その根拠のひとつとして以下の発言を挙げる。

「あいつ ホント好きだよな バレー 見てるこっちがしんどいくらい」

7巻60話 北川第一部員

「―俺ら3年には"来年"が無いです ―だから ひとつでも多く勝ちたいです 次へ進む切符が欲しいです それを取ることができるのが俺より影山なら 迷わず影山を選ぶべきだと思います」

4巻26話 菅原孝支

 及川についての発言は、もちろん影山の入部で精神的に追い詰められて鬼気迫っていた頃であるという事は考慮すべきだが、おそらくこの発言をした部員は前々からそう感じるところがあったのだろう。北川第一も強豪と呼ばれる学校だ。その学校の部員をして「好きだよな」と言わしめるのだから、やはり競技としてのバレーが好きなのであり、競技としてやっている側面が強いのだと思う。
 そして菅原の発言は、『ハイキュー!!』という作品の中でも名台詞のひとつに挙げられると思う。自分を抑え、チームを思って身を引きながらも、出番を得る事は諦めない姿勢は、彼が理性的で人格者である事を伺わせた。それと同時に、私はこの影山にセッターを譲った発言の周辺で、菅原は部活寄りの人間なのではないかと感じた。バレーボールという競技をこの先も続けていく場合、いずれは、自分がチームの中で何ができるのか、何を為すのかを考える前に、そもそもチームに所属する基準に達しているのかという問題が出てくるはずだ。部活は言ってしまえば入部届を出せばチームには所属できる。自分個人よりもチームを優先する、今のこのチームを勝たせたいという思いの強さは、やはり競技よりも部活寄りの姿勢なのではないかと思う。

 競技と部活の差を考えた時に、競技寄りの思考を持った場合、特にセッターという、コートに基本的には1人という枠を争うポジションでは、そこに現れるライバルに対して過敏になる事もあるだろう。及川の影山に対する姿勢の大人気なさは、性格の他にそういう理由もあったと思われる。

 次に、「アイデンティティの確立」という視点だ。アイデンティティは日本語では自己同一性とも訳され、自分は何者であるのか、という事が自分でわかっている事と砕いて良いと思う。菅原はアイデンティティが確立されたキャラクターである。それについては、「ダ・ヴィンチ」でのインタビューで作者が菅原についてこう言及していた。

「影山という圧倒的才能が入って来た時に、「では自分にあるものは何か」を考える事ができる人物なので。」

ダ・ヴィンチ2014年4月号
古舘春一1万2000字インタビュー

 この「では自分にあるものは何か」というのがアイデンティティだ。影山と自分の違いをしっかりと把握して、自分にできる事、自分の強みを探しているのである。
 それに対して、中学3年の時の及川はアイデンティティが確立されていなかったと言って良いだろう。影山という天才が入部してきた時に、自分の長所短所、及び影山の長所短所を判断して、自分の強みを活かして正セッターの座を守るという発想には達せていなかった。その結果が、60話で描かれた、オーバーワークや連携ミスだと思う。このアイデンティティが確立されていたかいないかというところにも、影山に対する姿勢の差の、もうひとつの大きな要因があったと思う。及川は中学3年の時、その事が焦りに繋がって、ただがむしゃらになって、フラストレーションを溜めて、影山に手を上げようとしてしまったのである。しかしこのアイデンティティだが、高校3年の及川には確立できているものだと思う。

「才能では敵わなくても皆が一番打ちやすいトスを上げられる自信はあるよ」

6巻53話 及川徹

「及川はどこであろうとそのチームの最大値を引き出すセッターだ チームの最大値が低ければそれまで 高ければ高いだけ引き出す それが奴の能力だ」

9巻77話 牛島若利

「誰からもどんな奴からも"100%"を引き出すなんてたとえ時間をかけたってできるとは限らない でも及川さんは例えあの人を嫌ってる奴とか すげえクセのある選手とかでさえ きっと自在に使いこなす」

12巻106話 影山飛雄

 ここに挙げたように、自分の中で及川徹というセッターはこうであるという認識ができており、それが他者の感覚と一致しているのである。アイデンティティの確立と自己客観視ができているので、おそらく今の状況で天才セッターが後輩に入って来たとしても、中学3年の頃のようにはならないと考えられる。つまり、中学3年の時の及川は確かに未熟だったが、成長もしているのである。ただし、そこで本当に圧倒的実力差があり、チームが勝つ為にも後輩に譲った方が良い状況、つまり菅原と同じ状況になったとしたら、具体的にどのような対応になるかはもちろんわからないが、菅原と同じような対応にはならないと思う。ここに、性格や、部活としてバレーに臨むのか競技としてバレーに臨むのかという差があるのだと考える。
 以上のように、及川と菅原との姿勢の差は性格の他に、「部活か競技か」、「アイデンティティが確立されていたかどうか」という観点から説明ができると考える。

 それでは、これが悪影響を及ぼしたのかどうかを、岩泉の影山に対する態度や、発言と合わせて次に考えたい。

岩泉一の姿勢

 岩泉と影山は北川第一で先輩・後輩の関係だった。しかし、岩泉の描写量そのものが多くはないとはいえ、この2人の絡みはほとんど描かれておらず、その関係性もほとんど把握できない。

〔影山から岩泉についての言及〕

「…及川さんと岩泉さん―あの4番のレフトの人…あの二人は 小学校のクラブチームから一緒らしいです 阿吽の呼吸?ってやつです」

6巻48話 影山飛雄

「追い込まれた この場面 及川さんは 岩泉さんに上げる!!」

7巻60話 影山飛雄

「…あ~あのもし大会が近いのにえーと…あっ 岩泉さんが無茶な攻撃をやるって言い出したら―」

10巻83話 影山飛雄

〔岩泉から影山についての言及〕

「影山 なんか凄くなってたな」

2巻16話 岩泉一

「及川さん サーブトスのコツを」
「いやだね バーカバーカ!」
「及川 1年にカラむんじゃねえ!」

7巻60話 影山飛雄・及川徹・岩泉一

「お前が凹ましたい相手その2が目の前だ」

7巻60話 岩泉一

〔岩泉と影山の接触〕

「―影山 悪いけど今日は終わりだ」
「あ…はい」

7巻60話 岩泉一・影山飛雄

 ここに挙げたものが全てではないが、影山から岩泉についての言及は基本的に及川をベースにしている。逆に岩泉から影山への言及は、バレーの技術に関する客観的な話がほとんどで、あとはこちらも及川をベースにした発言ばかりである。元先輩後輩であるという認識はもちろんあるようだが、2人とも及川というフィルターを1枚挟んで互いを認識しているという非常に間接的な関係であるように見受けられるのが特徴だと思う。
 それでは、及川というフィルターを1枚挟んだ関係という事は前提として、岩泉が影山をどう認識していたかという事を考えたい。というのも、岩泉のこの発言が物議を醸したからである。

「相手が天才1年だろうが牛島だろうが "6人"で強い方が強いんだろうがボゲが!!!」

7巻60話 岩泉一

 「相手」にチームメイトであるはずの天才1年こと影山を含め、「6人」には含めていない様子に、影山の事をチームメイトとも思わず排除しようとする意図があり、後の影山の孤立に繋がったのではないかという事だ。
 私は60話を読んだ当初、この意見を見て、「天才1年と牛島というのは、どんな相手だろうと程度の意味だろうし、言葉のあやにそんなに目くじらを立てる事もないだろうに」と考えていた。しかしそれと同時に、「天才1年」という言葉を口にしたという事実は確かに引っかかっていた。
 これについて今はこう考えている。

 岩泉は確かに影山を6人に含めていなかった。しかしそれは決して影山への悪意ではないし、チームから排斥しようとするものでもない。スポーツはチームで競うものであると同時に個人でも競うものである。『ハイキュー!!』は個人間で競う事に決して否定的な物語ではない。これは及川(岩泉)と影山の個人間での競争であり、それは誰にも悪影響は及ぼさない。

 これだけではわかりづらいと思うので、小分けにしてひとつずつ考えていきたい。

 岩泉は暗に影山を「6人」から除外した。ここにはどういった意図があるのだろうか。

 まず、これにはセッターというポジションの性質と岩泉のキャラクターの性質が大きく関わっていると思われる。セッターというポジションは基本的に椅子がひとつである。つまり、及川が正セッターでいる内には影山はその椅子に座り得ないし、影山が正セッターとなれば及川は当然その椅子から落ちる事になる。及川にしても影山にしても基本的に競技としてバレーボールに臨む姿勢をもつキャラクターである。

「イヤだね!何で後々 脅威になる奴を自分の手で造えなきゃなんないのさ! イヤだね バーカバーカ」

6巻52話 及川徹

「この人を超えれば まずは県で一番のセッターだ」

6巻53話 影山飛雄

 自分を超えさせまいとする及川と、超えようとする影山。及川も言っているが、「後々脅威になる」のである。部活というスパンではなく、もっと長い、競技というスパンで見た時に脅威になる存在として見ている事が伺える。

 また、影山は菅原に対してこのような発言もしている。

「今回は俺 自動的にスタメンですけど 次はちゃんと 実力でレギュラーとります!」

2巻10話 影山飛雄

 菅原に対する堂々たる宣戦布告である。
 競技として上に昇っていく事を考えた時に、おそらく正セッターの座を勝ち得るという事は、当然の事なのだろう。それは追うものも追われるものも同じだ。及川と影山が同じ競技という姿勢を持って存在する以上、対立は避けられないものだろう。

 そして次に岩泉は及川の為に用意されたキャラクターだという事である。
 金田一などへの接し方を見ている限り、岩泉は基本的に「良い先輩」であり、特別競技寄りの姿勢が強いような描写もない。岩泉のその性質が勝てば、及川が納得するかはともかくとして、菅原のような態度を及川に説いたかもしれない。しかし彼は及川の為に用意されたというメタ的なアイデンティティを持ち、おそらくその性質は何よりも優先されるものだ。だから岩泉にとってのセッターは及川以外にはありえなく、どこまでも及川側に立つ事はほぼ必然なのである。
 また、メタ的な要素を抜きにしても、岩泉がセッターとしての及川に信を置いている様子は17巻の「ちょうスゲェセッター」など、ところどころに見受けられる。仮に及川の努力の欠如や慢心から技術的に劣るようになり、セッターの座を奪われるような事態になるならば知るところではないが、そうでもないのに及川が自滅していくのは岩泉の本意ではないのだろう。

 及川と影山の対立が避けられないもので、岩泉にとってのセッターは及川である以上、及川が張り合うべき相手の天才1年セッター候補は「6人」には入らない。これが、岩泉が影山を6人に含めなかった意図の裏側だと思う。

 それではこの意図は影山への悪意や、影山をチームから排斥するといった、そういった方向に繋がる事があっただろうか。私は、それはないと考えている。
 6人に含めないと言っても、おそらく積極的に影山を支援するような事はしない程度のものだろう。

「及川さん サーブトスのコツを」
「いやだね バーカバーカ!」
「及川 1年にカラむんじゃねえ!」

7巻60話 影山飛雄・及川徹・岩泉一

 岩泉は及川にサーブトスのコツを教えてやれとは言わない。それは及川と影山との競争において影山を支援する行為だからではないだろうか。しかし同時に、行き過ぎた絡みについては影山側に立ち、及川を窘めるのであり、影山に対して咎めるようなアクションを起こすという事もない。

「相手が天才1年だろうが牛島だろうが "6人"で強い方が強いんだろうがボゲが!!!」

7巻60話 岩泉一

「キメ台詞は鼻かんでから言えよ」
ティッシュ使いますか」
「うるさいっ」

7巻60話 岩泉一・影山飛雄・及川徹

 相手を羅列した時に、牛島は名指しである一方で、影山は天才1年と概念的であるし、その他の影山に言及する台詞や、148話で春高試合終了後に烏野の健闘を称えるように影山の肩に手を置く岩泉の様子などを見ても、影山の人格に対して岩泉が悪意を持って接している様子はない。
 またコミカルなやりとりがある事からも、及川と影山の人間関係に至っても、吹っ切れて以降は陰湿にギスギスするようなものではなかったと思う。及川と岩泉が敵視したのはあくまで影山の才能に限った話なのだろう。6人に含めないからといってイコール悪意とはならないはずだ。

 その敵視についての是非だが、『ハイキュー!!』という物語はチームとしての在り方の描写を大切にする一方で、チーム内であっても個人間での競争を肯定的に描いているように思う。

「俺 負けません!」
「! ………… …うん 俺も負けない」

2巻10話 影山飛雄・菅原孝支

「…俺と月島はさ ポジションとか役割的に日向とライバル関係に近いから ヒヨコみたいだった日向が日に日に成長するのをひと一倍感じるんだろうな …―でも俺は 負けるつもりは無いよ」

10巻87話 東峰旭

 切磋琢磨という言葉がある通り、競い合う事はお互いのレベルを上げていく。『ハイキュー!!』もまた、チーム内でも互いに負けないと張り合う事で、より上を目指す様子が描かれている。
 及川の態度には確かに狭量なところがあり、それに異を唱えない岩泉も岩泉かもしれないが、本質的には東峰が言うところの「ライバル関係」と同じだろう。この対立自体は否定的に捉えるべきではないと考える。

 とはいえ、6人から排除するような意図が周囲にも伝わって、後にも繋がる悪影響を及ぼしたのでは、という意見もわかるにはわかる。確かに現実世界において、そういう距離感というものは周囲に伝わるものだし、チームを率いる人物がそんな調子では、チームの間に軋轢が生まれてしまうというのはありうる話だと思う。
 ただ、これまで述べてきたように個人間の競争に対しては肯定的である事や、人間関係自体はこじれていなさそうな様子からも悪影響はなかったように思うし、そして何より、これはもう感覚的な話になってしまうが、私は『ハイキュー!!』はそれが悪影響になるような物語ではないと感じるのだ。岩泉や及川からの悪影響はなく、影山孤立の原因は専ら影山と金田一らのコミュニケーション不全に終始するものだと思う。

 以上の事から、前述したこの事が岩泉のあの発言の全容であったと考えるところである。

 岩泉は確かに影山を6人に含めていなかった。しかしそれは決して影山への悪意ではないし、チームから排斥しようとするものでもない。スポーツはチームで競うものであると同時に個人でも競うものである。『ハイキュー!!』は個人間で競う事に決して否定的な物語ではない。これは及川(岩泉)と影山の個人間での競争であり、それは誰にも悪影響は及ぼさない。

岩泉の及川に関する特性

 私はしばしば岩泉を概念化してしまう。

 たとえば鉛筆という言葉がある。鉛筆の概念にはおそらく「筆記用具」という要素があるのではないかと思う。中心に黒鉛素材の芯があって、周りを軸で固め、筆記できるようにしたもの。それが鉛筆だろう。
 ただ実在する個体に目を向けてみると、現実に存在する鉛筆の中には、もしかしたら製造行程にミスがあって芯が入ってないものがあるかもしれない。それが誤って販売されて、使用者がいざ使おうとその鉛筆を見た時、それを芯のない鉛筆と呼ぶと思う。
 概念上では鉛筆ではありえない。黒鉛がなく、よって筆記もできない。鉛筆を構成していた要素はおよそ存在しない。
 しかし概念を離れた現実にはそういった鉛筆もありうるし、それをきっと私たちは鉛筆と呼んでしまう。概念からブレがあったところで、同じものとして認識はできる。

 岩泉は、一個の人格を与えられたキャラクターとして動いているわけだが、現実におけるそういった偶発的なブレがとても少なく感じられるキャラクターなのではないかと思う。
 岩泉とはこうだという設定があるとするとそこからブレることがない。芯が入っていないことがない。そういったイレギュラーの少ない確かさや絶対性があると感じる。

 花巻は腕相撲でどうしても勝てない。
 京谷は挑んだ勝負でことごとく負ける。
 及川に関する対応で間違えることはない。

 腕相撲に強い、あるいはスポーツ万能という設定があったところで、何回かに1回、あるいは特定の分野であれば現実的に考えれば負けがあってもおかしくない。しかし岩泉は絶対に負けない。
 元々は、モブに近い立ち位置であって造形に強く力を入れるべきキャラクターではないから、人間味を出すためのブレ(イレギュラー)を描く必要もなく、また及川の助け船として配置されたために、及川に関して絶対的に正しいという性質が自然と付与されてしまい、その絶対性が他の事柄にも及び、岩泉というある種の絶対性を持ったキャラクターを形作っているのかと思う。
 岩泉に付与されてしまったその確かさや絶対性ゆえに、私はしばしば岩泉を概念化してしまう。
 言えば箇条書きマジックである。白雪姫と眠れる森の美女を箇条書きすると同じ話に見える、そんなマジック。要素を抜き出して、あたかもそれが岩泉であるというような話だ。
 なのでこれからする話はひどく宙ぶらりんでつかみどころのない話だと思う。

 岩泉はたびたび及川が脇の甘いことをすると指摘をするが、それは岩泉の中に理想の及川像があるからなのだろうか。

 結論から言うと私は違うと思う。
 及川徹はこうあるべきみたいなものを岩泉が持っているとすれば、岩泉の指摘は及川に受容されておよそ好ましい結果になっているのだから、岩泉はもっとその結果になんらかのリアクションを起こして良いと思う。
 しかし岩泉は及川に指摘したら指摘しっぱなしなだけで、満足したりする様子もなく、またなんらかの反応を期待してる風でもない。
 だから岩泉の中に理想の及川像があるかというと別にないのだと思う。

 しかし岩泉は及川に厳しい。
 ちょっとの脇の甘さも許さない。

  西谷が自分にも他人にも厳しいと評されていたが、西谷は自分の理想形を基準にして、その上でそれにそぐわない行動に対して厳しくなるタイプだと思う。
 一方で岩泉は理想形を自分の中に抱える厳しさではない。ではどんな厳しさかと言うと、及川の中の基準に照らし合わせるようにして、お前は本当にそれでいいのか、というような突きつけ方をしている気がする。及川徹の中で及川徹はそれでいいのかと問いかけ、内省を促すような、そんな厳しさだと思う。だから及川以外にはあまりその厳しさは発揮されない。及川に要求するのと同じレベルを周囲に求めたりしない。

 それは姿見のようだと思う。

ハルジオン

ハルジオン BUMP OF CHICKEN
http://j-lyric.net/artist/a000673/l0013dc.html

 概念化された岩泉はこれだと思う。
 もちろん岩泉は実在だが、及川の物語の中で担ってきた役割だけに目を当てれば、この「白い花」に限りなく近いように思う。
 及川が何かを見失ってしまった時に、警鐘を鳴らす存在。
 主張が強いわけではない(=主要なキャラクターではない)、ものいうわけではない(=岩泉の言うことは作品通念的であって彼独自のものではなく、新しい概念を持ち込んだりしない)、ただ揺れてそれでいいのか問いかける存在。
 お守りのようなものかもしれない。たとえば交通安全ならバックミラーの横で視界にちらついたり、鞄に忍ばせて鞄を開けた時にちらっと見えたり、そういうことで気持ちを落ち着かせたり元の位置に戻してくれたりしてくれるようなそんな存在なのではないかと思う。

自浄機能

 あまりにも及川の異変に敏感で、かつその異変への対処が的確で、また対処したことに別段何も感じるところがなさそうであるため、概念化された岩泉は及川の中の一機能、自浄機能なのではないかと言う話ばかりしてた時期もあった。
 免疫系は体内にウイルスが入ってきたら勝手に退治始めるのが当然であるような話だ。
 正常に戻すのは至極当然のことであって、だから岩泉は正常に戻った及川に特別のリアクションは起こさない。
 春高烏野戦で「これを3年生最後の試合にするわけにはいかない」と焦る金田一に助言した岩泉は、それを聞き入れた金田一に満足そうな顔をした。
 岩泉は及川の自浄機能ではあるが金田一の自浄機能ではない。だからそこに満足が生じる。
 自浄機能かそうでないかは距離感の問題だろうか。
及川に対して岩泉は限りなくゼロ距離にいるようだから、たぶん及川の一部かのような表現が自分の中でしっくり来てしまうんだろう。